若冲生家跡の説明板には、「若冲が描く絵画のなかには、蕪、大根、レンコン、茄子、カボチャなどが描かれ、菜蟲譜(さいちゅうふ)という絵巻には野菜だけでなく柘榴、蜜柑、桃といった果物も描かれている。極め付けは、果蔬涅槃(かそねはん)図で、釈迦の入滅を描いた涅槃図になぞらえて、中央に大根が横たわり、その周囲には、大根の死を嘆くさまざまな野菜や果物が描かれている。このようなユニークな作品は、若冲が青物問屋を生家とすることに由来しているといわれている。」とありました。
若冲は、30代後半に相国寺塔頭の住職である大典和尚と出会い、禅に興味を持ち、参禅して「若冲居士」の号を得たそうです。家督を弟に譲った若冲は、動植綵絵や鹿苑(金閣)寺大書院障壁画の制作を始め、1765年に動植綵絵を相国寺に寄進したそうです。
相国寺には、若冲の作品を展示する承天閣美術館があります。承天閣美術館の伊藤若冲展(前期)では、動植綵絵の複製や鹿苑寺大書院障壁画50面(重要文化財)が展示されていました。写真は承天閣美術館です。相国寺の墓地には、若冲が生前に建てたとされる若冲の墓があります。写真は若冲の墓であり、中央に足利義政、左に藤原定家、そして右に伊藤若冲の墓が並んでいました。
また、京都国立博物館では、「特集陳列 生誕300年 伊藤若冲」が開催され、上述の果蔬涅槃図を鑑賞することができました。「果蔬」とは野菜と果物であり、「涅槃」とは仏教において究極的目標である永遠の平和,最高の喜び,安楽の世界を意味し、とくに釈迦の死を意味するそうです。若冲は伏せた籠の上に横たわる二股の大根を釈迦に見立て8本の沙羅双樹をトウモロコシで表現し、実に66種類の野菜や果物を描いているそうです。
また、若冲が晩年を過ごした石峰寺を描いた「石峰寺図」がありました。
さらに、京都国立博物館の近くの建仁寺の塔頭両足院では「雪梅雄鶏図」を楽しむことができました。写真は両足院です。
1788年、若冲は、天明の大火で家を焼失すると、伏見深草の石峰寺に移り住み、描いた絵を一斗の米と交換して生活していたようです。しかし、この晩年が若冲にとって悲しみに満ちたものかというと、元来無欲な若冲にとって貧困は苦にならず、むしろ悠々自適だったようです。写真は石峰寺の石段です。
石段を上ると総門が見えてきます。若冲は、石峯寺の本堂背後に釈迦の誕生から涅槃までの一代記を描いた石仏群・五百羅漢像を築く計画を練り、若冲が下絵を描き石工が彫り上げたそうです。その五百羅漢像は住職と妹の協力を得て10年弱で完成し、1800年、84歳で若冲は亡くなったそうです。写真は石峰寺の若冲の墓であり、墓石に「斗米庵若冲居士墓」とありました。
さらに石段を登り境内の門を潜って本堂の裏山へ
裏山には、約530体の石仏で構成された五百羅漢像があります。完成当時は1000体以上あったといわれ、お寺の人の話では山を掘れば石仏が出てくると思われますとのことでした。
裏山の斜面には沢山の石仏が置かれています。
下の写真は賽の河原を表しているそうです。
いずれの石仏も優しい顔をしています。
片膝を立てて沢山の石仏を眺める1体の石仏がありました。この石仏が若冲自身のようです。きっと石仏の若冲は石仏群を見て満足しているのでしょうね。
上掲の果蔬涅槃図は、石峰寺の石仏が完成した後に描かれたもののようです。そのことから若冲はユーモラスに果蔬涅槃図を描いたのではなく、生死を世界を真剣に考え、身近な野菜と果物で生死の世界を表現したともいわれていますね。
(追)
石峰寺の石仏は東京でも見ることができます。椿山荘の庭園にある20体の石仏は石峰寺の石仏が流出したもののようです。写真は椿山荘の石仏です。
石峰寺の人に聞いた話によると、石峰寺がある伏見深草には明治時代に陸軍第16師団があり、陸軍に影響力がある山縣有朋が石峰寺にあった石仏を流出させ、自邸(現在の椿山荘)に置いたのではないかとのことでした。
また、栃木県の佐野市立吉澤美術館には若冲が描いた菜蟲譜があります。菜蟲譜は、11メートルにおよぶ巻物であり、前半には四季の野菜や果物が、後半からは昆虫や爬虫類などの小さないきものたちが描かれています。菜蟲譜には、野菜・果物等約100種、昆虫等約60種が描かれているようです。
写真は前半の野菜や果物であり、シイタケ(?)や柿(?)などが描かれています。左にあるのはヘチマのようです。
写真は後半の昆虫等であり、蝶とユーモラスな蛙が描かれています。
若冲の足跡を辿る散歩を終わります。