京都散歩(17)-伊藤若冲の足跡を辿って-

江戸時代の絵師伊藤若冲は、1716年に錦市場の「枡屋」という青物問屋の長男として生まれました。23歳で家督を受け継いだ若冲は商売に熱心でなく、40歳の時に家督を弟に譲り、その後は絵を描くことに熱中したという逸話が残っています。しかし、錦市場の営業権を巡って積極的に調整活動を行っていた記録もあるようです。写真は錦市場の若冲生家跡です。
若冲生家跡の説明板には、「若冲が描く絵画のなかには、蕪、大根、レンコン、茄子、カボチャなどが描かれ、菜蟲譜(さいちゅうふ)という絵巻には野菜だけでなく柘榴、蜜柑、桃といった果物も描かれている。極め付けは、果蔬涅槃(かそねはん)図で、釈迦の入滅を描いた涅槃図になぞらえて、中央に大根が横たわり、その周囲には、大根の死を嘆くさまざまな野菜や果物が描かれている。このようなユニークな作品は、若冲が青物問屋を生家とすることに由来しているといわれている。」とありました。
若冲は、30代後半に相国寺塔頭の住職である大典和尚と出会い、禅に興味を持ち、参禅して「若冲居士」の号を得たそうです。家督を弟に譲った若冲は、動植綵絵や鹿苑(金閣)寺大書院障壁画の制作を始め、1765年に動植綵絵を相国寺に寄進したそうです。
相国寺には、若冲の作品を展示する承天閣美術館があります。承天閣美術館の伊藤若冲展(前期)では、動植綵絵の複製や鹿苑寺大書院障壁画50面(重要文化財)が展示されていました。写真は承天閣美術館です。
また、伊藤若冲展(後期)では、鸚鵡牡丹図などが展示されていました。
相国寺の墓地には、若冲が生前に建てたとされる若冲の墓があります。写真は若冲の墓であり、中央に足利義政、左に藤原定家、そして右に伊藤若冲の墓が並んでいました。
また、京都国立博物館では、「特集陳列 生誕300年 伊藤若冲」が開催され、上述の果蔬涅槃図を鑑賞することができました。「果蔬」とは野菜と果物であり、「涅槃」とは仏教において究極的目標である永遠の平和,最高の喜び,安楽の世界を意味し、とくに釈迦の死を意味するそうです。若冲は伏せた籠の上に横たわる二股の大根を釈迦に見立て8本の沙羅双樹をトウモロコシで表現し、実に66種類の野菜や果物を描いているそうです。
また、若冲が晩年を過ごした石峰寺を描いた「石峰寺図」がありました。
さらに、京都国立博物館の近くの建仁寺の塔頭両足院では「雪梅雄鶏図」を楽しむことができました。写真は両足院です。
1788年、若冲は、天明の大火で家を焼失すると、伏見深草の石峰寺に移り住み、描いた絵を一斗の米と交換して生活していたようです。しかし、この晩年が若冲にとって悲しみに満ちたものかというと、元来無欲な若冲にとって貧困は苦にならず、むしろ悠々自適だったようです。写真は石峰寺の石段です。
石段を上ると総門が見えてきます。
若冲は、石峯寺の本堂背後に釈迦の誕生から涅槃までの一代記を描いた石仏群・五百羅漢像を築く計画を練り、若冲が下絵を描き石工が彫り上げたそうです。その五百羅漢像は住職と妹の協力を得て10年弱で完成し、1800年、84歳で若冲は亡くなったそうです。写真は石峰寺の若冲の墓であり、墓石に「斗米庵若冲居士墓」とありました。
さらに石段を登り境内の門を潜って本堂の裏山へ
裏山には、約530体の石仏で構成された五百羅漢像があります。完成当時は1000体以上あったといわれ、お寺の人の話では山を掘れば石仏が出てくると思われますとのことでした。
裏山の斜面には沢山の石仏が置かれています。
下の写真は賽の河原を表しているそうです。
いずれの石仏も優しい顔をしています。
片膝を立てて沢山の石仏を眺める1体の石仏がありました。この石仏が若冲自身のようです。きっと石仏の若冲は石仏群を見て満足しているのでしょうね。
上掲の果蔬涅槃図は、石峰寺の石仏が完成した後に描かれたもののようです。そのことから若冲はユーモラスに果蔬涅槃図を描いたのではなく、生死を世界を真剣に考え、身近な野菜と果物で生死の世界を表現したともいわれていますね。
(追)
石峰寺の石仏は東京でも見ることができます。椿山荘の庭園にある20体の石仏は石峰寺の石仏が流出したもののようです。写真は椿山荘の石仏です。
石峰寺の人に聞いた話によると、石峰寺がある伏見深草には明治時代に陸軍第16師団があり、陸軍に影響力がある山縣有朋が石峰寺にあった石仏を流出させ、自邸(現在の椿山荘)に置いたのではないかとのことでした。
また、栃木県の佐野市立吉澤美術館には若冲が描いた菜蟲譜があります。菜蟲譜は、11メートルにおよぶ巻物であり、前半には四季の野菜や果物が、後半からは昆虫や爬虫類などの小さないきものたちが描かれています。菜蟲譜には、野菜・果物等約100種、昆虫等約60種が描かれているようです。
写真は前半の野菜や果物であり、シイタケ(?)や柿(?)などが描かれています。左にあるのはヘチマのようです。
写真は後半の昆虫等であり、蝶とユーモラスな蛙が描かれています。
若冲の足跡を辿る散歩を終わります。

京都散歩(16)-瑞泉寺-

三条大橋の西の木屋町通にある瑞泉寺は、豊臣秀吉の甥・豊臣秀次の一族の菩提を弔うための建立された寺です。写真は瑞泉寺の表門です。
今から約420年前、鴨川の三条河原で悲しい事件が起こりました。1595年8月2日の昼下がり、秀次公の一族の公開処刑が秀吉の命により行われたそうです。写真は鴨川に架かる三条大橋です。
秀次は、秀吉の養子となり関白の位を継いでいましたが、秀吉に秀頼が生まれると次第に疎んじられ1595年7月に高野山で自害させられました。次いで、8月に秀次に幼児や妻妾たち39人が三条大橋の西畔の河原で処刑されたそうです。遺骸はその場に埋葬され、塚が築かれ、石塔が建てられていたが、その後の鴨川の氾濫などで荒廃し、1611年、角倉了以(すみのくらりょうい)が高瀬川の開削中に墓石を発掘し、墓を再建するとともにこの地にお堂を建立したのが瑞泉寺の由緒のようです。写真は秀次公と一族の墓です。
正面に秀次公の墓、その両脇に一族の墓が並んでいました。
秀次公は1595年7月15日 、秀吉公の命により高野山青厳寺において切腹し、御首のみ京の三条河原に移され、その前に秀次公のご一族が引き出されて、次々と処刑されていったそうです。秀次公の御一族である四人の若君と一人の姫君、そして側室として仕えた若く美しい女性たち34人の合計39人は、三条大橋から多くの人が見守る中、一人ずつ処刑されては大きく掘られた穴に投げ込まれたそうです。その後、遺骸が投げ込まれ埋められた穴の跡に大きな塚が築かれ、頂上には秀次公の御首を納めた「石びつ」が据えられ、三条大橋を渡る人々への見せしめとされたそうです。この塚の位置に現在の瑞泉寺の本堂が建てられたそうです。写真は見難いですが三条大橋と瑞泉寺の位置を描いた絵です。
なぜ、秀次一族まで処刑されなければならなかったのか?
秀吉に謹慎を命じられてだけの秀次が勝手に切腹し、秀吉生母(大政所)の菩提寺(青厳寺)を血で汚した事への報復により秀次一族は皆殺しにされたという説があるようです。写真は遺体が投げ込まれた跡に築かれた「殺生塚」を描いた絵です。塚の頂上に秀次の首を納めた石びつが置かれています。
時の権力者は大きな過ちを犯すことがあります。あまりに理不尽で悲しい出来事に合掌せずにはいられませんでした。