京都散歩(55) ろーじ -最終回-

京都には沢山の路地がありますね。「ろじ」やおまへん「ろーじ」どす。
という声が聞こえてきそうな京都の「ろーじ」は、名無しの「ろーじ」を含めると数えきれないほど存在するといわれているようです。「ろーじ」は、応仁の乱で荒れ果てた京都に聚楽第を建設した豊臣秀吉により、大路や小路で囲まれた街区の中央にさらに小路が作られ、街区中央の空地を有効活用できるようにしたことが始まりのようです。写真は祇園白川巽橋の向かいにある巽辻子です。
 「ろーじ」には、行き止まりの「ろーじ」と通り抜けができる「辻子」があるようですが、明確な区別はされていないようです。写真は観光名所の巽橋、雨の朝は観光客がいませんでした。
こちらは四条新釜座町の膏薬辻子(こうやくのずし)
西陣の三上家路地
このような「ろーじ」の町家の風景は京都らしいですね。
「ろーじ」の散歩で京都散歩もいよいよ終盤に近付いてきたので京都の町を俯瞰してみました。
京都タワーからみた東福寺と東山三十六峰
 清水寺
 知恩院と大雲院・祇園閣
 東本願寺
 京都散歩で最初に参拝した東寺
また、東山には将軍塚がありました。和気清麻呂は、桓武天皇をお誘いし、この山頂から京都盆地を見下ろし、ここが都の場所にふさわしいと進言し、桓武天皇はその勧めに従って794年、平安建都に着手したそうです。そして、都の鎮護のため将軍の像を造り、この将軍塚に埋めたそうです。写真は東山の将軍塚青龍殿です。
将軍塚からみた京都御所
2年間にわたる京都散歩で神社仏閣、日本庭園、茶室、日本画などの都の伝統文化に触れることができ、自分にとって沢山の新たな発見ができました。これで京都散歩を終わります。

京都散歩(54) 大悲閣千光寺 -保津川と角倉了以-

嵐山の象徴である渡月橋が架かる桂川は、渡月橋より上流の嵐山付近が大堰川、それより上流が保津川と呼ばれるようです。この桂川は、平安京造営時には丹波の木材輸送などに用いられたそうですね。写真は春の桂川と渡月橋です。
渡月橋の少し上流で堰き止められた大堰川には、平安時代は船が浮かべられ、御公家様の観月が行われていたようです。現在でも屋形船が往来し、秋は素晴らしい紅葉が楽しめますね。写真は穏やかな流れの大堰川の上流(保津川)と屋形船です。
しかし、ここより上流の保津川は、巨岩や奇岩がむき出しとなる狭くて流れが渦巻く複雑な河川形状で溪谷をなし、筏は流せても、舟を通すのは容易ではなかったようです。江戸時代初期、丹波地域の豊富な木材や薪炭、米や野菜などの物産を効率よく運ぶには丹波から京都へ向かって流れている保津川に舟を流すのが最適であると考えたのが角倉了以(すみのくらりょうい)でした。
角倉了以は、慶長11年(1606)、大石を大勢の人で引き動かし、水面に出て航行の邪魔になる石は砕くなどの難工事を施し、約5ヶ月で保津川の開削工事を終えたようです。保津川の開削により、丹波から生活基盤の物資が京の都へと運ばれ、都市機能整備の需要材の調達と景気や物価の安定が支えられたようです。その後、了以は高瀬川の開削工事も完成させ、京都と天下の台所・経済の中心地大坂をつなぐことで丹波―京都―大坂を結ぶ舟運による物資流通ルートを整備しました。
そして、水運の父、了以は、保津川近くの大悲閣千光寺で保津川開削工事で犠牲となった人達を弔うとともに、晩年をこの付近で過ごしたそうです。写真は大悲閣千光寺の参道です。
千光寺の観音堂
観音堂から保津川を望む
観光名物の保津川下りの終着である大堰川と小倉山
角倉了以が保津川や高瀬川の開削を行い、舟運による物資流通ルートを整備したことにより、江戸時代に政治の中心が江戸に移っても、京都を衰退させることなく、文化都市として発展させたのかもしれませんね。写真は一之舟入付近の高瀬川と高瀬舟です。
大悲閣千光寺の散歩を終わります。

京都散歩(53) -三千院、宝泉院、寂光院-

三千院は、延暦年間(782‐806)に伝教大師最澄が比叡山内に堂宇を構えたことに始まり、その後、皇子皇族が住持する宮門跡になり、時代の流れの中で、比叡山内から移転を重ね、明治維新後、現在の地大原に移り「三千院」と称されるようになったようです。写真は三千院の参道です。
大原の地は、京都市街の北東であって比叡山の北西に位置し、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地だったようです。壇ノ浦の戦いで生き残った平清盛の娘徳子(建礼門院)が隠棲したことでも有名であり、また都の喧騒から離れた僧や比叡山での天台修行から逃れた僧が集まる「大原別所」となっていたようです。そのような隠棲の地であった大原は現在、参拝客で賑わう誰もが知る観光地となっていますね。写真は「女ひとり」永六輔氏作詞の歌碑です。
平安期、隠棲の地であり天台の別所だった大原に、来迎院、極楽院、勝林院などの寺院がつくられると、大原に住み着いた念仏行者の取り締まりや寺院を管理する梶井門跡(天台座主最雲法親王)の政所が置かれ、その政所が梶井門跡の本坊となり、明治維新後に三千院となったようです。写真は三千院の御殿門です。政所の入り口だった御殿門の脇の石垣は近江坂本の穴太衆(あのうしゅう)によるもののようです。
極楽院は、浄土信仰が盛んだった平安末期に建立されたものであり、明治初期に三千院が洛中から移ってきた際に三千院の境内に取り込まれ、往生極楽院となったようです。往生極楽院には西方浄土から亡者を来迎する阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊が安置され、来迎印を結ぶ阿弥陀如来の両脇の観音菩薩と勢至菩薩が直ぐに浄土に導けるように腰を少し浮かせた大和座りをしていることが特徴のようです。写真は往生極楽院と苔が美しい庭園有清園です。
有清園のわらべ地蔵
三千院から実光院へ
三千院の北にある実光院は、勝林院の子院であり、客殿には声明の資料として石造りの調音器(木琴ならぬ石琴?)がありました。
客殿の南には、律川から引いた水で作る心字池を中心とした池泉鑑賞式庭園の契心園があり、秋海棠が咲いていました。
実光院からさらに北に進み勝林院へ
勝林院は、唐で経典などに独特の旋律を付けて唱える声明を学んだ慈覚大師円仁によって開かれ、古くから天台声明の道場だったようです。この勝林院を本堂とする下院と、三千院の東にある来迎院を本堂とする上院とを以て「魚山大原寺(ぎょざんだいげんじ)」と総称され、現在の「大原」の地名のもととなったようですね。写真は勝林院の本堂です。
勝林院から宝泉院へ
宝泉院も勝林院の子院であり、書院前の庭園に樹齢約700年の五葉松がありました。
書院前の庭園である盤桓園(ばんかんえん)は、「立ち去りがたい」という意味を持ち、書院の柱や鴨居を額に見立てて鑑賞することから、「額縁庭園」ともいわれ、テレビや雑誌などで紹介されていますね。写真は額縁庭園の五葉松です。
初秋の桔梗
宝泉院から寂光院へ
寂光院は、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残った建礼門院徳子が尼となって源平の戦に破れて遠く壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔い、余生を過ごしたようですね。
本堂は、淀殿の命で片桐且元が再興したものでありましたが、2000年に放火により本尊とともに焼失してしまったようです。なお、焼けた本尊は境内の収蔵庫に安置されているそうです。写真は2005年に再建された本堂です。
雨の中の苔が美しい中門
三千院、宝泉院、寂光院の散歩を終わります。

京都散歩(51) -宝厳院、常寂光寺、祇王寺-

お馴染みの嵐山と渡月橋
天龍寺塔頭、宝厳院(ほうごんいん)
新緑が美しい宝厳院
宝厳院の獅子吼の庭
龍門瀑
三尊石
嵯峨野の常寂光寺、山門
本堂へ続く常寂光寺の石段
常寂光寺の本堂
多宝塔と京都市内
藤原定家が小倉百人一首を撰んだと伝わる山荘・時雨亭の跡
平家物語ゆかりの祇王寺
祇王寺の苔庭
笠と火袋だけの石灯籠
(了)

京都散歩(52) -青蓮院門跡、天授庵、無鄰菴-

青蓮院門跡門前の巨大クスノキ
青蓮院門跡は、天台宗の門跡寺院であり、江戸時代になって仮御所となったため粟田御所とも呼ばれています。
小御所の東に造られた相阿弥の庭
宸殿
南禅寺塔頭天授庵
小堀遠州作庭と伝わる方丈前庭
南禅寺三門から見た天授庵
明治の元勲山縣有朋の別邸だった無鄰菴
東山を借景とした庭園
(了)