臨済宗南禅寺派の総本山の南禅寺は、日本の禅寺の中で最も格式の高い禅寺であり、京都五山の別格とされている寺院ですね。
藤堂高虎が建立した三門
三門の階段
三門から見た京都市内
参道と三門
小堀遠州作と伝わる方丈庭園
琵琶湖疎水の水道橋
水道橋を流れる琵琶湖疎水
南禅院
永観堂の名で知られる禅林寺
永観堂の中門
開山堂から望む京都市内
放生池
琵琶湖疎水の南禅寺船溜まりの噴水
蹴上インクライン
復元された台車
南禅寺と永観堂の散歩を終わります。
ぶらり散歩
京都散歩(42)紅葉の東福寺 -通天橋、龍吟庵、即宗院-
通天橋は満員電車並みの混雑
開山堂の庭園
東福寺塔頭 室町時代初期に建造された現存最古の方丈(国宝)がある龍吟庵
方丈正面の南庭、「無の庭」(重森三玲作庭)
南庭、稲妻模様が施された竹垣
西庭、龍が海中から黒雲を得て昇天する姿を石組みによって表現した「龍の庭」
青石による龍頭
東庭、鞍馬石を砕いた赤石を敷き詰めた「不離の庭」
東福寺塔頭 薩摩藩の菩提寺である即宗院
関白藤原兼実公(近衛家)の山荘月輪殿の跡地に造られた庭園
幕末期、西郷隆盛と月照上人(清水寺僧)が幕府転覆の密談を行った地
西郷隆盛自筆による薩摩藩士東征戦亡の碑
(即宗院の解説) ー引用ー
臨済宗東福寺派、大本山東福寺塔頭。嘉慶元年(1387)九州薩摩藩島津氏久公が、剛中玄柔禅師(東福寺第54世住持)を開山として建立。薩摩藩の菩提寺で氏久公の法名「齢岳玄久即宗院」から寺名とした。創建当時は現在より南に位置していたが、永禄12年(1569)に火災で焼失し、島津義久公が慶長18年(1613)頃再建した。その地は、関白藤原兼実公が晩年営んだ山荘「月輪殿」の跡で、国宝「法然上人絵伝」にも描かれている。寛政11年(1799)発行の「都林泉名勝図絵」にも名園として紹介されている。庭園は現在京都市名勝に指定され、紅葉の美しさと千両の鮮やかさで有名である。
西郷隆盛公と僧月照(京都清水寺の勤皇僧)は、王政復古を志し、新撰組や幕府の追っ手を逃れこの即宗院の採薪亭で幕府転覆の策をめぐらした。西郷隆盛公はその後の苦難を乗り越え、鳥羽伏見の戦い(慶応5年)から勝ち進み勝利を手中にした。戦いの戦死者524霊を弔うためこの即宗院で斎戒沐浴し碑文を書きしたため、明治2年に「東征戦亡の碑」を建立した。また、篤姫が、近衛家の養女となって徳川家へのお興しいれの際、この即宗院に立ち寄ったと言われる。
京都の日本庭園 #6 -明治期以降の日本庭園-
武家社会が終わり明治期に入ると、京都の寺院は廃仏毀釈により新政府によって敷地が召し上げられ、京都五山の別格である南禅寺も例外ではなく、南禅寺界隈の東山は政財界人の別荘地になっていきました。また、明治期になって人口の減少が著しかった京都の復興を図るため琵琶湖疎水が南禅寺界隈まで引かれました。そして、明治中頃、琵琶湖疎水が完成すると、東山の別荘に琵琶湖疎水の水を引き込んで数々の近代日本庭園が作庭されていきました。
その日本庭園の代表とされるのが明治の元勲山縣有朋が七代目小川治兵衛に作庭させた無鄰菴です。無鄰菴は、南禅寺の西方にあり、東西に伸びる比較的狭い土地に、東山を借景とし、芝生空間に琵琶湖疎水から引いた水を軽快に流して開放的な庭園としています。写真は小川治兵衛が作庭した無鄰菴の庭園です。
無鄰菴の庭園は、上の写真に見るように、左右に背の高いモミや檜、中央には背の低い樹木を配して、木立の中に東山を借景として奥行きを出し、その奥の滝から流れ落ちる琵琶湖疎水の水を芝生の広場を横切るように流して渓流のような雰囲気を醸し出しています。これは、山縣有朋が作庭にあたり、明るい芝生空間を造り、モミや檜など今まで脇役だった木を使用し、琵琶湖疎水の水を引き入れるといった当時の日本庭園では初めての条件を小川治兵衛に課したそうです。
また、その一方で、下の写真に見るように、滝から流れ落ちた水で池泉を造り、また丸石を配した州浜も造り、日本庭園の伝統も守っています。
近代日本庭園の先駆者といわれる小川治兵衛は、日本庭園の伝統を守りつつ、苔よりも芝生を多く用いて庭園を開放的にし、渓流を造ることにより庭園に音を取り入れた新しい庭園を造りました。また、小川治兵衛は、琵琶湖西岸で採石され、チャートで縞模様が特徴の守山石を琵琶湖疎水を利用して舟で運搬し、南禅寺界隈の庭園に庭石として多く使用したそうです。写真は無鄰菴の守山石です。縞模様が斜めになっていますね。
このように、大名庭園や御所庭園とは趣が異なり、芝生など西洋文化を取り入れた開放的な庭園が南禅寺界隈の東山を中心に造られていきました。
昭和になると、作庭家重森三玲(しげもりみれい)により、さらに革新的な日本庭園が造られていきます。重森三玲により作庭された代表的な庭園は、東福寺方丈庭園、光明院、龍吟庵などがあげられます。
まず、東福寺方丈庭園をみていきます。東福寺方丈庭園は、東庭、南庭、西庭、北庭の四つの庭園があり、日本庭園における伝統的な様式(枯山水)、手法(蓬萊神仙思想の表現)、意匠(市松模様)などが用いられていますが、随所に新たな作庭の試みがなされています。
東庭が「北斗七星」、南庭には四つの神仙島・京都五山・八海、西庭は井田を表した大市松模様、北庭が苔と板石による小市松で構成されています。北斗七星、蓬莱、瀛洲(えいしゅう)、壺梁(こうりょう)、方丈、京都五山、八海、市松の八つの意匠を盛り込み、釈迦の出生から入滅までを表しているそうです。
東庭の「北斗七星」は、釈迦の出生を星座で表したものであり、斬新な試みであったようです。上の写真は、東庭の「北斗七星」であり、高さの異なる円柱状の礎石を配置した構成となっています。
また、南庭の築山(上の写真)は、複数の苔山の大きさや高さを変化させた構成として京都五山を表しているそうです。禅宗庭園では石を配した築山としていましたが、石を配することなく築山を構成していることが三玲の試みのようです。
西庭(上の写真)は、井田の庭と呼ばれ、市松模様がサツキの刈り込みと葛石(かずらいし)で表現されています。葛石とは、社寺の建物の壇の縁などに用いられる長方形(直方体)に加工された石です。三玲は、それまで庭園に用いられることがなかった長方形の葛石を市松模様の直線部に用いるという新たな試みを行ったようです。上の写真を見ると葛石が市松模様から少し飛び出ていますね。
北庭(上の写真)は、西庭の大市松に対して切り石を敷き詰めた小市松になっています。北庭の西庭側は西庭の市松を受け継いでいるために、ほぼ正確な市松で配置されていますが、程なくしてそれが崩れていき、そして最後は一石ずつ配しながら消えていくというボカシの構成として釈迦の入滅を表しているそうです。このように、三玲は絵画で用いられるボカシを庭園に持ち込み、新たな表現としました。
また、東福寺の塔頭である光明院の「波心庭」も三玲の作庭であり、「光明」をテーマとして大海原を表す白砂と光のごとく放射状に林立する沢山の巨石で構成されたモダンな庭園となっています。写真は波心庭です。
上の写真の中央やや右は三尊石、その背後の躑躅とサツキの刈り込みは雲を表しているそうです。
大胆な起伏に苔を配し、三組の三尊石を配しながら大小の石を林立した波心庭も三玲の新たな試みだったのでしょうね。
次に、東福寺の塔頭である龍吟庵の庭園をみてみます。
龍吟庵の庭園は、南庭、西庭、東庭で構成され、三玲によって昭和39年に作庭されたようです。下の写真は、南庭であり、無の庭と呼ばれ、白砂を敷いただけのシンプルな構成となっています。西庭との境の竹垣に施されている稲妻の意匠が現代的ですね。
下の写真は、西庭であり、龍門の庭と呼ばれ、龍が海(白砂)から顔を出して黒雲(黒砂)に乗って昇天する姿を石組みによって表現しているようです。
写真の石組みが龍の頭と角を表しています。
東庭は、不離の庭と呼ばれ、鞍馬の赤石を砕いて敷き詰めていることが特徴です。
このように、明治期以降、伝統的な作庭手法に加え、芝生や刈込み、巨石の配置や絵画の手法(ボカシ)など新たな手法が採用され、近代的な庭園が作庭されてきました。おそらく、室町時代や戦国時代の禅宗庭園も作庭当時は中国文化を取り入れた斬新なものであったことと思います。小川治兵衛や重森三玲などが先駆けとなって作庭した近代庭園もやがて伝統的な庭園となっていくことでしょう。
京都の日本庭園(完)
その日本庭園の代表とされるのが明治の元勲山縣有朋が七代目小川治兵衛に作庭させた無鄰菴です。無鄰菴は、南禅寺の西方にあり、東西に伸びる比較的狭い土地に、東山を借景とし、芝生空間に琵琶湖疎水から引いた水を軽快に流して開放的な庭園としています。写真は小川治兵衛が作庭した無鄰菴の庭園です。
無鄰菴の庭園は、上の写真に見るように、左右に背の高いモミや檜、中央には背の低い樹木を配して、木立の中に東山を借景として奥行きを出し、その奥の滝から流れ落ちる琵琶湖疎水の水を芝生の広場を横切るように流して渓流のような雰囲気を醸し出しています。これは、山縣有朋が作庭にあたり、明るい芝生空間を造り、モミや檜など今まで脇役だった木を使用し、琵琶湖疎水の水を引き入れるといった当時の日本庭園では初めての条件を小川治兵衛に課したそうです。
また、その一方で、下の写真に見るように、滝から流れ落ちた水で池泉を造り、また丸石を配した州浜も造り、日本庭園の伝統も守っています。
近代日本庭園の先駆者といわれる小川治兵衛は、日本庭園の伝統を守りつつ、苔よりも芝生を多く用いて庭園を開放的にし、渓流を造ることにより庭園に音を取り入れた新しい庭園を造りました。また、小川治兵衛は、琵琶湖西岸で採石され、チャートで縞模様が特徴の守山石を琵琶湖疎水を利用して舟で運搬し、南禅寺界隈の庭園に庭石として多く使用したそうです。写真は無鄰菴の守山石です。縞模様が斜めになっていますね。
このように、大名庭園や御所庭園とは趣が異なり、芝生など西洋文化を取り入れた開放的な庭園が南禅寺界隈の東山を中心に造られていきました。
昭和になると、作庭家重森三玲(しげもりみれい)により、さらに革新的な日本庭園が造られていきます。重森三玲により作庭された代表的な庭園は、東福寺方丈庭園、光明院、龍吟庵などがあげられます。
まず、東福寺方丈庭園をみていきます。東福寺方丈庭園は、東庭、南庭、西庭、北庭の四つの庭園があり、日本庭園における伝統的な様式(枯山水)、手法(蓬萊神仙思想の表現)、意匠(市松模様)などが用いられていますが、随所に新たな作庭の試みがなされています。
東庭が「北斗七星」、南庭には四つの神仙島・京都五山・八海、西庭は井田を表した大市松模様、北庭が苔と板石による小市松で構成されています。北斗七星、蓬莱、瀛洲(えいしゅう)、壺梁(こうりょう)、方丈、京都五山、八海、市松の八つの意匠を盛り込み、釈迦の出生から入滅までを表しているそうです。
南庭の石組みは蓬莱神仙思想を表したものであり、大きな長い石を横に寝かせた構成はとても珍しいものであったようです。
通常、庭石は縦置きにするところ、重森三玲は長い石を横に寝かせ、立石の存在を強調させたのかもしれません。上の写真は立石と横に寝かせた長い石です。
西庭(上の写真)は、井田の庭と呼ばれ、市松模様がサツキの刈り込みと葛石(かずらいし)で表現されています。葛石とは、社寺の建物の壇の縁などに用いられる長方形(直方体)に加工された石です。三玲は、それまで庭園に用いられることがなかった長方形の葛石を市松模様の直線部に用いるという新たな試みを行ったようです。上の写真を見ると葛石が市松模様から少し飛び出ていますね。
北庭(上の写真)は、西庭の大市松に対して切り石を敷き詰めた小市松になっています。北庭の西庭側は西庭の市松を受け継いでいるために、ほぼ正確な市松で配置されていますが、程なくしてそれが崩れていき、そして最後は一石ずつ配しながら消えていくというボカシの構成として釈迦の入滅を表しているそうです。このように、三玲は絵画で用いられるボカシを庭園に持ち込み、新たな表現としました。
また、東福寺の塔頭である光明院の「波心庭」も三玲の作庭であり、「光明」をテーマとして大海原を表す白砂と光のごとく放射状に林立する沢山の巨石で構成されたモダンな庭園となっています。写真は波心庭です。
上の写真の中央やや右は三尊石、その背後の躑躅とサツキの刈り込みは雲を表しているそうです。
大胆な起伏に苔を配し、三組の三尊石を配しながら大小の石を林立した波心庭も三玲の新たな試みだったのでしょうね。
次に、東福寺の塔頭である龍吟庵の庭園をみてみます。
龍吟庵の庭園は、南庭、西庭、東庭で構成され、三玲によって昭和39年に作庭されたようです。下の写真は、南庭であり、無の庭と呼ばれ、白砂を敷いただけのシンプルな構成となっています。西庭との境の竹垣に施されている稲妻の意匠が現代的ですね。
下の写真は、西庭であり、龍門の庭と呼ばれ、龍が海(白砂)から顔を出して黒雲(黒砂)に乗って昇天する姿を石組みによって表現しているようです。
写真の石組みが龍の頭と角を表しています。
東庭は、不離の庭と呼ばれ、鞍馬の赤石を砕いて敷き詰めていることが特徴です。
このように、明治期以降、伝統的な作庭手法に加え、芝生や刈込み、巨石の配置や絵画の手法(ボカシ)など新たな手法が採用され、近代的な庭園が作庭されてきました。おそらく、室町時代や戦国時代の禅宗庭園も作庭当時は中国文化を取り入れた斬新なものであったことと思います。小川治兵衛や重森三玲などが先駆けとなって作庭した近代庭園もやがて伝統的な庭園となっていくことでしょう。
京都の日本庭園(完)
12.土佐散歩 -長曾我部元親と一領具足-
土佐高知といえば桂浜
太平洋に臨み大きく湾曲し、月の名所として名高い桂浜は坂本龍馬が最も愛した場所といわれているようです。写真は桂浜です。
そして、土佐の幕末志士である武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎は高知駅前に土佐勤王党結成150周年を記念した「三志像」として建てられています。このように高知は幕末に沢山の志士を輩出したことで有名ですね。写真は三志像です。
しかし、戦国時代に土佐国を治めた長曾我部元親の像は有名観光地とは離れた場所にあります。長曾我部元親は、土佐に生まれた戦国大名であり、一領具足と呼ばれる半農半兵を動員して土佐を平定し、説によればその後四国全土をほぼ平定したようです。写真は若宮神社に建てられた長曾我部元親初陣の像です。長曾我部元親は、1539年に岡豊(おこう)城で生まれ、「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれるほど色白く大人しかったそうです。23歳の初陣と遅かったが、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せ、以降「土佐の出来人」といわれるようになったそうです。写真は岡豊城跡です。
元親は1575年に土佐をほぼ統一すると、阿波、讃岐、伊予へと侵攻し、四国全土の平定を目指しますが、織田信長はこれを良しとせず、元親と信長は対立していきます。元親は信長の死後、積極的に一領具足(いちりょうぐそく)を活用し、ほぼ四国全土統一しますが、豊臣秀吉の攻撃を受けて降伏し、土佐一国を安堵され高知城に本拠を移したようです。写真は南国らしい蘇鉄と高知城です。
一領具足は、一領(ひとそろい)の具足(武器、鎧)を携え、直ちに召集に応じる農民です。元親は、一領具足に開墾領地を与え、その代わりに長曾我部家への忠誠を求めたそうです。土佐の一領具足などの農民は一領の具足を傍において農作業を行っていたようですね。写真は高知城の天守から望む高知市内です。
高知城の付近は水はけが悪く度々の水害に悩まされた元親は、水運の拠点だった高知南部の桂浜近くの浦戸城に拠点を移し、浦戸城を本格的な城郭に改造したそうです。写真は浦戸城跡の石碑です。
豊臣秀吉政権下において元親は、長男の信親とともに九州征伐に出征しますが、戸次川の戦いで将来を期待していた信親が討たれると、ひどく落ち込んだようです。写真は浦戸城跡から望む太平洋です。
元親は、長男信親が戦死した後、英雄としての覇気を一気に失い、家督相続では末子の盛親の後継を強行し、反対する家臣は一族だろうと皆殺しにするなど、それまでの度量を失ってしまったようです。
元親の跡を継いだ盛親は関ヶ原の戦いにて西軍についてしまい、土佐の所領を取り上げられ、山内一豊が土佐に入封することになります。それに反対した一領具足たち273人は「旧主に土佐一郡(半国とも)を残して欲しい」と浦戸城へ立てこもりますが、ことごとく捕縛され斬首にされてしまう浦戸一揆が起こりました。写真は浦戸城跡近くの一領具足の碑への標識です。
山内氏は、一領具足を中心とした長曾我部旧家臣団を藩士(上士)より身分の低い郷士(下士)として取り入れました。その身分の違いは大河ドラマ「龍馬伝」で描かれていましたね。写真は、浦戸一揆の悲劇を後世に伝るために建てられた一領具足の碑です。
桂浜に建つ龍馬像
戦国時代を生き抜いた長曾我部元親ゆかりの地、そして新たな日本の原動力となった地を巡る土佐散歩を終わります。
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