日光山は、男体山を信仰する山岳信仰の霊場であり、現在の男体山はかつて「ふたらさん」と呼ばれ、「二荒山(ふたらさん)」が音読みされて「日光山」と呼ばれるようになったとする説があるようです。写真は、おなじみの二荒山神社の神橋です。
神橋の近くには天海大僧正の像があります。天海は、比叡山延暦寺などで天台宗を学んだ後、現在の太田市世良田の長楽寺や川越市の喜多院に移り、家康の信頼を受けるようになったようです。天海は、家康に幕府を江戸の地に置くように助言し、また鬼門封じのため上野に寛永寺を築き、裏鬼門にあたる増上寺を徳川家の菩提寺としました。こうして、天海は江戸の基本を設計していきます。
家康は、天海、秀忠などに「臨終となったら体を久能山に収め、・・・一周忌も過ぎて以後、日光山に小堂を建て・・・鎮守になろう」の遺言を残しました。二代将軍秀忠や天海は、この遺言を受け日光山に日光東照宮を建てます。
写真は、以前、太田市の世良田を散歩したときに撮影した写真であり、天海により天台宗に改宗された世良田山長楽寺です。
秀忠が建てた日光東照宮は、三代将軍家光により大規模改築が行われ、現在の豪華すぎるほどの社殿などになっていきます。家光は弟の国松との世継ぎ争いがありましたが、太平の世において無駄な争い避けるために、祖父家康により世継ぎは長男の家光に決定されたようです。家光は、家康に対する思いや政策、天海の助言により莫大な費用と人を投入して日光東照宮の大規模改築を行います。
日光東照宮の大規模改築の際に、秀忠が建てた東照宮は天海の助言により徳川氏とゆかりの深い世良田に移築されました。
写真は、以前世良田を散歩したときに撮影した写真であり、太田市の世良田東照宮です。
世良田東照宮の拝殿や社殿は、家康の遺言通り「小堂」でした。
鎖国体制などの強権政策を行い太平の世を築いた家光は、江戸城内で死去し、遺言により日光山輪王寺に葬られます。写真は、家光の廟所である輪王寺大猷院(たいゆういん)です。
家光公の御廟所の入り口である皇嘉(こうか)門、この奥に家光のお墓がありますが非公開でした。
輪王寺大猷院は、寺院では珍しく北向きに建てられているそうです。
輪王寺大猷院の北方には家康公の御廟所があり、家光は死してなお、祖父家康公に仕えていることを表しているのですね。これで、日光山の散歩を終わります。