6.近江散歩(1) 近江八幡、彦根 戦国武将ゆかりの地を訪ねて

今回は、近江八幡、彦根、長浜を散歩しました。

まず、近江八幡へ
近江八幡は、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次が整備した城下町であり、近江商人発祥の地とされています。八幡山城の防御と琵琶湖の水運の要として利用された八幡堀が今も残されています。
「売り手よし、買い手よし、世間よし」の理念をもつ近江商人の流れを汲む企業として高島屋、伊藤忠商事、住友、また創業者が近江八幡出身の西川産業等があるようです。写真は近江商人の信仰を集めた日牟禮(ひむれ)八幡宮
秀次は秀吉からこの地を与えられると八幡山に城を築き、安土城や城下町を移築したようです。写真は八幡山城の虎口跡に建てられた瑞龍寺の山門
1585年に八幡山城を築城した秀次は1595年に高野山で切腹となり、この八幡山城も廃城となりました。秀次の切腹の理由は、謀反の疑い、石田三成の陰謀、秀次の悪行など諸説あるようですが、秀頼が生まれた秀吉に秀次は不要だったのでしょう。写真は八幡山城西の丸跡
近江八幡から車で彦根へ
彦根は古くから交通の要衝であり、その彦根の佐和山城には信長の家臣である丹羽長秀や秀吉の家臣である石田三成などが居城しました。写真は佐和山城への登山道の入り口となっている龍潭寺の山門
関ケ原の戦いで三成が敗れると佐和山城には徳川四天王の一人である高崎藩主井伊直政が佐和山藩(のち彦根藩)初代藩主として入りました。しかし、佐和山の地は三成によって善政が敷かれ、三成への領民の信頼が厚かったため、直政はその威光を払拭すべく彦根城を築城することを計画します。佐和山城は、彦根城に移築された建造物以外は徹底的に城割されましたが、作りは質素であり、財産も殆どなかったようです。
井伊直政は、箕輪城を廃して高崎城を築き、佐和山城を廃して彦根城を築く計画を建て現在の高崎と彦根の基礎を築いたのですね。写真は佐和山城本丸跡から望む彦根城と琵琶湖と彦根の街
佐和山の麓に清凉寺があります。
清凉寺は井伊直政の発願により創建され、井伊家の菩提寺になっています。井伊直弼もこの清凉寺で参禅修行したそうです。写真は清凉寺
清凉寺から彦根城へ
彦根城は、井伊直政の長男直継によって築城されたとされていますが、関ヶ原の戦いで傷を負った直政の死後、家督を継いだ直継は幼少であったため、直政の遺志を継いだ家老や家康によって築城されたようです。その後、直継(直勝)は彦根藩の家臣をまとめることができず安中藩に移封になりました。写真は彦根城の天守
彦根藩は井伊家によって治められ、幕末期に15代藩主井伊直弼がこの彦根で生まれました。写真は直弼が生まれたとされる井伊家下屋敷の楽々園です。
彦根藩井伊氏は一度の転封もなく石高は譜代大名の中でも最高だったようです。写真は井伊家の庭園である玄宮園と彦根城天守
直弼は名門の井伊家に14男として生まれたため、自らを花も咲くことがない埋もれ木に例え、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた邸宅で世捨て人のように17歳から32歳までの15年間を過ごしたそうです。写真は埋木舎
直弼は埋木舎で国学などを学んだそうです。そして、開国派となって開国を断行し、水戸藩浪士により桜田門外で暗殺されてしまったのでしょうか。ここ埋木舎で日本の歴史の大きな転換の礎が築かれたのかもしれませんね。

これで、近江散歩(1)を終わります。

(追)
井伊直政が居城とした高崎箕輪城跡
彦根藩二代藩主井伊直孝ゆかりの世田谷豪徳寺の白猫(招き猫)をモデルにしたひこにゃん