12.北軽井沢散歩 -高原鉄道だった草軽電鉄-

スイスの高原鉄道に倣って大正15年に建設され、昭和37年に廃線になった草軽電鉄の痕跡を訪ね北軽井沢を散歩しました。

まず、北軽井沢へ行く前に旧軽井沢へ

見慣れたお土産屋さんですが、この付近に草軽電鉄の旧軽井沢駅があったそうです。このお土産屋さんは「駅舎旧軽井澤」の看板を掲げています。

草軽電鉄は、現在の軽井沢駅の近くの新軽井沢駅から草津温泉駅までの全長55.5kmを結び、沿線の旅客輸送とともに、物資および木材・薪炭・硫黄などの貨物を輸送し、地域発展に貢献することを目的に建設されたそうです。下の地図の緑の線が草軽電鉄の路線です。

現在の軽井沢駅前には、草軽電鉄の電気機関車が展示されています。
この電気機関車は鉱山用のものを改造したようで、運転室は狭く、運転手は横向きに座って操作していたようです。

今でも草軽電鉄の軌道の痕跡が残るのは、旧軽井沢のロータリーから三笠までの三笠通りです。
写真の左側の車道は右側の車道より一段高くなっておりここに軌道が敷かれていたようです。

この段差は、車で通過するとそれほど高く感じませんが、高い所で約0.8mほどあります。
付近の地形を観察すると写真の右側の部分の土で左側の軌道部分を高く盛り上げたように感じられます。
 
この三笠通りを登って行くと中央分離帯の終点に広場のようなものがあります。ここに、旧軽井沢駅の隣駅である三笠駅があったようです。
 
ここで、旧軽井沢まで戻り、車で小瀬温泉付近の草軽電気鉄道軌道跡へ

草軽電鉄は、軽井沢と草津温泉の直線距離約32kmを路線延長約55.5kmで結び、建設費を抑えるためトンネルはなく、また極力鉄橋の距離を短くするため、谷奥深く入り急カーブの連続だったようです。
鬱蒼とした林の中に僅かに軌道の跡が感じられます。写真は軌道跡です。
 
草軽電鉄は、「四千尺高原の遊覧列車」 をキャッチフレーズに、軽井沢と草津温泉の間を約3時間半で結んでいたそうです。

平均時速が20km程度なので走っている列車から飛び降りて花を摘んで再び列車に乗ることができたというのどかなエピソードが残されているようです。

往時は、この付近から浅間山を望めたのかもしれませんね。

更に、車で北軽井沢まで移動しました。

北軽井沢には、改修された北軽井澤駅舎が残っています。
 この駅舎は、昭和2年に法政大学から寄贈され、その時、駅名が地蔵川駅から北軽井沢駅に改称されたようです。

北軽井沢は、明治期に旧館林藩士が開拓移民として入植し、開拓され、次第に法政大学村などの別荘地として発展していくことになります。
あるとき、法政大学長の別荘が草軽電鉄の蒸気機関車の火の粉で火災になり、学長が会社に抗議に行ったが逆に説得され草軽電鉄の電化事業に手を貸すようになったそうです。

写真は旧軽井沢駅舎です。欄間に法政大学を表す「H」の白文字が意匠されています。

北軽井沢は、第二次世界大戦後、満州などからの引揚者により農地開拓が行われ、この北軽井沢駅周辺も、農業地、観光・保養地として沢山の人で賑わったようです。

そして、戦後、草軽電鉄は乗客数が増加し、昭和30年に49万人の乗客数を記録したようです。

しかし、当時の国鉄の長野原線やバス、西武鉄道の高原バスなどの運行が始まると、輸送力の差は歴然であり、草軽電鉄は、次第に乗客が減少し、さらに昭和34年の台風により橋梁を流失したことが追い打ちとなり、昭和37年1月31日をもって廃線となってしまいました。
当日は雪が降る中乗客も少なく、寂しい最終運行だったようです。

写真は、「カブトムシ」の愛称で親しまれた電気機関車の木製模型です。

 のどかな高原鉄道列車は、このカブトムシにゆっくりと引かれていたのですね。

(追)
草軽電鉄軌道跡近くの白糸の滝

 草軽電鉄の栗平駅跡近くの浅間大滝
 
魚止めの滝
北軽井沢散歩を終わります。