京都散歩(49) 大徳寺 -大仙院、総見院、龍源院-

大仙院は大徳寺の塔頭であり、三世の古渓和尚が千利休の首を加茂の河原から持ち帰ったことで知られているようです。
また、大仙院の方丈は、国宝であり、東福寺塔頭の龍吟庵の方丈とともに室町時代の姿を残しているそうです。
さらに、大仙院の方丈の庭園は、室町時代初期の禅宗の枯山水庭園の形態を今に伝える名庭園であり、国の特別名勝に指定されています。なお、大仙院の庭園は残念なことに写真撮影禁止でした。
また、方丈につながる玄関も国宝に指定されています。

枯山水庭園は、水を用いず、石の組合せや地形の高低などによって山水の趣を表した庭園であり、禅宗寺院を中心に発展してきた庭園です。写真は方丈の北東庭です。この北東庭は、大きな滝石組の前に石橋を架け、また周囲にはツバキやゴヨウマツを植え、深山幽谷の風景を表しているようです。
写真は北東庭の南側の南東庭であり、南東庭は廊橋の手前に白砂敷の上に船形石などが据えられ、廊橋で隔てられた北東庭からの川の流れが大海に流れる様子を白砂で表現しているようです。大仙院の庭は枯山水の代表的な庭園として、江戸時代に発行された作庭書などにもその名が挙られているそうです。
総見院へ
総見院は、秀吉が本能寺の変に倒れた織田信長の追善菩提のために建立した大徳寺の塔頭です。秀吉は、信長亡き後の政権争いの中、主導権を握るための建立したそうです。本堂には秀吉が奉納した木造織田信長公坐像(重要文化財)が安置されており、その大きさは高さ三尺八寸(約115cm)の等身大に作られたそうです。
総見院の回廊
露地庭園
加藤清正が朝鮮から持ち帰ったとされる掘り抜き井戸
信長公の墓
濃姫の墓
孤篷庵へ
孤篷庵は、作庭家、建築家、茶人として後世に大きな影響を与えた小堀遠州が建立した大徳寺塔頭であり、遠州好みの茶室・忘筌(ぼうせん)があります。
しかし、通常非公開のため山門より先には入れませんでした。
山門の前には遠州が造ったとされる石橋があり、木のように加工されていました。
石橋の側面
龍源院へ
龍源院は、能登の畠山氏、豊後の大友氏らによって創建された大徳寺の塔頭です。大仙院とともに、方丈の禅宗庭園が美しいことで知られているようです。
方丈の東には東滴壺(とうてきこ)と呼ばれる壺庭があります。写真の中央の石の周りに広がる波紋は一滴の水が滴り落ちる様子を表しているようです。一滴の水が小川になり、大河になり、ついには大海になるように、一滴の大切さ、一滴がそのまま大海につながることを表現しているそうです。
方丈の北庭である竜吟庭です。この竜吟庭は、室町時代特有の三尊石組からなる須弥山(しゅみせん)形式の枯山水庭園であり、相阿弥の作庭と伝えられているようです。石組みで陸地を表し、杉苔で大海原を表しているそうです。写真中央の大きな石組の須弥山は、仏教において世界の中心にあると考えられる想像上の山であり、山頂は神々の世界に達し,周囲は幾重もの山岳や海に囲まれているといわれているようです。
方丈の南庭である一枝坦(いっしだん)です。写真の中央奥の石組みで蓬莱山、右隅の石組みが鶴島、左手前が亀島、白砂が大海を表しています。
蓬莱山は、中国、古代における想像上の神山であり、仙人が住み、不死の薬をつくっており、遠く望めば雲のようであり、近づけばどこへか去って常人には辿りつけないところといわれているようです。写真は蓬莱山の石組みです。
白砂と亀島
龍源庵の扁額
書院前の滹沱底(こだてい)
阿吽の石庭とも呼ばれ、奥の石が阿の石、手前の石が吽の石です。
開祖堂前庭の灯篭
大徳寺の近くの落ち着きのある小川通、道路右側が表千家
大徳寺(大仙院、総見院、龍源院)の散歩を終わります。