まず、松江城へ
松江城は1611年に堀尾氏によって築城され、城主は堀尾氏、京極氏と続きましたがいずれも嗣子なく断絶した後、越前系松平氏となり、一度の戦乱に巻き込まれることなく明治維新を迎えたそうです。天守は維新においても取り壊されることなく、現存天守として国宝に指定されていますね。写真は松江城です。
松平氏が入封した当初(1638年)から松江藩の財政は苦しく、多額の債務を抱えるようになっていたようです。そのような松江藩の財政を再建したことで知られるのが松江藩七代藩主松平不昧(ふまい)です。しかし、不昧の先代から朝鮮人参、櫨蝋(はぜろう)、木綿、鉄等の生産により藩財政は徐々に回復し、不昧が藩主になった頃から蓄財ができるようになったため、不昧は十代の頃から学んだ茶道に傾倒するようになったようです。写真は松江城の堀と塩見縄手の松です。
塩見縄手と呼ばれる通りの近くの高台に、松平不昧によって建てられ、移築された明々庵がありました。明々庵は、厚い茅葺の入母屋造りが特徴であり、二畳台目の小さな茶室が侘び寂を感じさせる造りとなってました。写真は明々庵です。
不昧が藩の財政再建を側近に任せ、茶人として不昧流を創設するまでに至ったのは財政再建の結果裕福になったことを幕府から警戒されることを恐れて道楽者を演じたとの説もあるようです。しかし、不昧は18巻にも及ぶ茶器の図鑑ともいわれる「古今名物類聚」などを自ら作成したことから本当に茶道が好きだったように思えます。写真は明々庵の茶室、床の「明々庵」(不昧公筆)の掛け軸です。
茶席では不昧公御好みの松江銘菓「菜種の里」と「若草」(春の和菓子ですが)で抹茶をいただきました。
茶人として才能に優れた不昧は、高額な茶器を多く購入するなどして散財したため、藩の財政は再び悪化したようです。しかし、不昧が茶人として活躍するに伴い、京都や金沢と並び松江城下には名品と呼ばれる和菓子が数多く生まれ、松江地方に茶の湯文化を今に伝えるようになったようです。写真は不昧の墓所である月照寺です。
島根県立美術館では不昧ゆかりの名品が展示されていました。
そして、出雲にも不昧ゆかりの茶室がありました。
1990年に廃駅となった大社駅から沢山の神話が伝わる出雲大社へ
神在月(神無月)の出雲大社には全国から八百万の神々が集まり神議が行われるそうですね。写真は出雲大社境内の正門である勢溜(せいだまり)です。
拝殿
本殿の裏では因幡の白兎が参拝していました。
さて、出雲大社の近くにある不昧ゆかりの茶室は、かつて松江藩江戸下屋敷にあった利休好みの(利休が建てたと伝わる)独楽庵を復元したものです。独楽庵の露地は、外露地・中露地・内露地と三部構成で、それぞれの露地を門や中潜りで関所のように仕切った造りとなっており、三つの関所と三つの露地から「三関三露」とも呼ばれているそうです。写真は外露地への入り口、「独楽庵」の扁額があります。
内露地の中心に再現された独楽庵は、三つの茶室が合体した複合型の茶室であって(独楽庵はその内の一つの茶室)、元々は独立して存在してあったようですが、不昧公の元に来た時には既にこの姿であったようです。写真は独楽庵です。
松江藩江戸下屋敷は、現在の品川八ッ山橋付近にあったようで、大崎苑(大崎園)と呼ばれたそうです。不昧は1806年に家督を長男に譲って大崎苑に隠居して「不昧」と号すると、茶器の名器蒐集と茶会に明け暮れたそうです。大崎苑には11もの茶室があったとされ、特に中心に据えられた「独楽庵」は、千利休が宇治田原に二畳壁床の茶室を建てたものであり、利休の死後、京都、大坂に移されていたものを、不昧が買い上げて大崎に移築したそうです。独楽庵を見学した後、隣の茶室で抹茶をいただきました。床の掛物は不昧公筆によるもののようです。
不昧公ゆかりの茶室を楽しんだ後は、外国人が選ぶ日本庭園ランキングで桂離宮を押さえてNo.1の足立美術館へ
背後の山々を借景とし、大きな滝を配した雄大な庭園であり、また落ちたすべての葉や花びらが取り除かれるほど手入れが行き届いた庭園は素晴らしいものでありました。ただ、足立美術館の庭園は、禅の教えを伝える禅宗庭園などとは趣を異にするものであり、団体客が訪れる観光目的の庭園のようにも感じられました。
松江・出雲散歩を終わります。