12.土佐散歩 -長曾我部元親と一領具足-

土佐高知といえば桂浜
太平洋に臨み大きく湾曲し、月の名所として名高い桂浜は坂本龍馬が最も愛した場所といわれているようです。写真は桂浜です。
そして、土佐の幕末志士である武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎は高知駅前に土佐勤王党結成150周年を記念した「三志像」として建てられています。このように高知は幕末に沢山の志士を輩出したことで有名ですね。写真は三志像です。
しかし、戦国時代に土佐国を治めた長曾我部元親の像は有名観光地とは離れた場所にあります。長曾我部元親は、土佐に生まれた戦国大名であり、一領具足と呼ばれる半農半兵を動員して土佐を平定し、説によればその後四国全土をほぼ平定したようです。写真は若宮神社に建てられた長曾我部元親初陣の像です。
長曾我部元親は、1539年に岡豊(おこう)城で生まれ、「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれるほど色白く大人しかったそうです。23歳の初陣と遅かったが、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せ、以降「土佐の出来人」といわれるようになったそうです。写真は岡豊城跡です。
元親は1575年に土佐をほぼ統一すると、阿波、讃岐、伊予へと侵攻し、四国全土の平定を目指しますが、織田信長はこれを良しとせず、元親と信長は対立していきます。元親は信長の死後、積極的に一領具足(いちりょうぐそく)を活用し、ほぼ四国全土統一しますが、豊臣秀吉の攻撃を受けて降伏し、土佐一国を安堵され高知城に本拠を移したようです。写真は南国らしい蘇鉄と高知城です。
一領具足は、一領(ひとそろい)の具足(武器、鎧)を携え、直ちに召集に応じる農民です。元親は、一領具足に開墾領地を与え、その代わりに長曾我部家への忠誠を求めたそうです。土佐の一領具足などの農民は一領の具足を傍において農作業を行っていたようですね。写真は高知城の天守から望む高知市内です。
高知城の付近は水はけが悪く度々の水害に悩まされた元親は、水運の拠点だった高知南部の桂浜近くの浦戸城に拠点を移し、浦戸城を本格的な城郭に改造したそうです。写真は浦戸城跡の石碑です。
豊臣秀吉政権下において元親は、長男の信親とともに九州征伐に出征しますが、戸次川の戦いで将来を期待していた信親が討たれると、ひどく落ち込んだようです。写真は浦戸城跡から望む太平洋です。
元親は、長男信親が戦死した後、英雄としての覇気を一気に失い、家督相続では末子の盛親の後継を強行し、反対する家臣は一族だろうと皆殺しにするなど、それまでの度量を失ってしまったようです。
元親の跡を継いだ盛親は関ヶ原の戦いにて西軍についてしまい、土佐の所領を取り上げられ、山内一豊が土佐に入封することになります。それに反対した一領具足たち273人は「旧主に土佐一郡(半国とも)を残して欲しい」と浦戸城へ立てこもりますが、ことごとく捕縛され斬首にされてしまう浦戸一揆が起こりました。写真は浦戸城跡近くの一領具足の碑への標識です。
山内氏は、一領具足を中心とした長曾我部旧家臣団を藩士(上士)より身分の低い郷士(下士)として取り入れました。その身分の違いは大河ドラマ「龍馬伝」で描かれていましたね。写真は、浦戸一揆の悲劇を後世に伝るために建てられた一領具足の碑です。
そして、幕末期になると土佐藩からは沢山の志士が誕生しますが、その多くが郷士(下士)の流れを受けた者であり、土佐勤王党を結成した武市半平太や維新に大きく貢献した坂本龍馬も例外ではないようですね。写真は武市半平太の墓です。
桂浜に建つ龍馬像
戦国時代を生き抜いた長曾我部元親ゆかりの地、そして新たな日本の原動力となった地を巡る土佐散歩を終わります。

11.松江・出雲散歩 -大名茶人・松平不昧-

まず、松江城へ
松江城は1611年に堀尾氏によって築城され、城主は堀尾氏、京極氏と続きましたがいずれも嗣子なく断絶した後、越前系松平氏となり、一度の戦乱に巻き込まれることなく明治維新を迎えたそうです。天守は維新においても取り壊されることなく、現存天守として国宝に指定されていますね。写真は松江城です。
松平氏が入封した当初(1638年)から松江藩の財政は苦しく、多額の債務を抱えるようになっていたようです。そのような松江藩の財政を再建したことで知られるのが松江藩七代藩主松平不昧(ふまい)です。しかし、不昧の先代から朝鮮人参、櫨蝋(はぜろう)、木綿、鉄等の生産により藩財政は徐々に回復し、不昧が藩主になった頃から蓄財ができるようになったため、不昧は十代の頃から学んだ茶道に傾倒するようになったようです。写真は松江城の堀と塩見縄手の松です。
塩見縄手と呼ばれる通りの近くの高台に、松平不昧によって建てられ、移築された明々庵がありました。明々庵は、厚い茅葺の入母屋造りが特徴であり、二畳台目の小さな茶室が侘び寂を感じさせる造りとなってました。写真は明々庵です。
不昧が藩の財政再建を側近に任せ、茶人として不昧流を創設するまでに至ったのは財政再建の結果裕福になったことを幕府から警戒されることを恐れて道楽者を演じたとの説もあるようです。しかし、不昧は18巻にも及ぶ茶器の図鑑ともいわれる「古今名物類聚」などを自ら作成したことから本当に茶道が好きだったように思えます。写真は明々庵の茶室、床の「明々庵」(不昧公筆)の掛け軸です。
茶席では不昧公御好みの松江銘菓「菜種の里」と「若草」(春の和菓子ですが)で抹茶をいただきました。
茶人として才能に優れた不昧は、高額な茶器を多く購入するなどして散財したため、藩の財政は再び悪化したようです。しかし、不昧が茶人として活躍するに伴い、京都や金沢と並び松江城下には名品と呼ばれる和菓子が数多く生まれ、松江地方に茶の湯文化を今に伝えるようになったようです。写真は不昧の墓所である月照寺です。
島根県立美術館では不昧ゆかりの名品が展示されていました。
そして、出雲にも不昧ゆかりの茶室がありました。
1990年に廃駅となった大社駅から沢山の神話が伝わる出雲大社へ
神在月(神無月)の出雲大社には全国から八百万の神々が集まり神議が行われるそうですね。写真は出雲大社境内の正門である勢溜(せいだまり)です。
拝殿
本殿の裏では因幡の白兎が参拝していました。
さて、出雲大社の近くにある不昧ゆかりの茶室は、かつて松江藩江戸下屋敷にあった利休好みの(利休が建てたと伝わる)独楽庵を復元したものです。独楽庵の露地は、外露地・中露地・内露地と三部構成で、それぞれの露地を門や中潜りで関所のように仕切った造りとなっており、三つの関所と三つの露地から「三関三露」とも呼ばれているそうです。写真は外露地への入り口、「独楽庵」の扁額があります。
内露地の中心に再現された独楽庵は、三つの茶室が合体した複合型の茶室であって(独楽庵はその内の一つの茶室)、元々は独立して存在してあったようですが、不昧公の元に来た時には既にこの姿であったようです。写真は独楽庵です。
松江藩江戸下屋敷は、現在の品川八ッ山橋付近にあったようで、大崎苑(大崎園)と呼ばれたそうです。不昧は1806年に家督を長男に譲って大崎苑に隠居して「不昧」と号すると、茶器の名器蒐集と茶会に明け暮れたそうです。大崎苑には11もの茶室があったとされ、特に中心に据えられた「独楽庵」は、千利休が宇治田原に二畳壁床の茶室を建てたものであり、利休の死後、京都、大坂に移されていたものを、不昧が買い上げて大崎に移築したそうです。独楽庵を見学した後、隣の茶室で抹茶をいただきました。床の掛物は不昧公筆によるもののようです。
不昧公ゆかりの茶室を楽しんだ後は、外国人が選ぶ日本庭園ランキングで桂離宮を押さえてNo.1の足立美術館へ
背後の山々を借景とし、大きな滝を配した雄大な庭園であり、また落ちたすべての葉や花びらが取り除かれるほど手入れが行き届いた庭園は素晴らしいものでありました。ただ、足立美術館の庭園は、禅の教えを伝える禅宗庭園などとは趣を異にするものであり、団体客が訪れる観光目的の庭園のようにも感じられました。
松江・出雲散歩を終わります。

13.冥界散歩 -京都・六道の辻-

かつて、京都の鴨川の六条河原や三条河原に処刑場があり、また鴨川より東の鳥辺野には平安京の墓所があったようです。

その鴨川から少し東にこの世とあの世の境とされる六道の辻と呼ばれる場所があります。

写真はその六道の辻にある六道珍皇寺です。
六条河原の処刑場は、弁慶と牛若丸が決闘を行ったと伝わる五条大橋の南の現在の正面橋の付近だったようです。

写真は正面橋と鴨川です。
清水寺近くの鳥辺野には現在もたくさんのお墓があります。

写真は鳥辺野の墓地です。
「六道」とは仏教の教義でいう地獄道(じごく)・餓鬼道(がき)・畜生道(ちくしょう)・修羅(阿修羅)道(しゅら)・人道(人間)・天道の六種の冥界をいい、人は因果応報(いんがおうほう)により、死後はこの六道を輪廻転生(りんねてんせい)する(生死を繰返しながら流転する)といわれているようです。

そして、この六道の分岐点、いわゆるこの世とあの世の境(さかい)の辻が、冥界への入口と信じられてきたようです。
六道の辻にある六道珍皇寺には、とても興味深い「十界曼荼羅図」が展示されていました。

「十界曼荼羅図」は、悟りを開き、煩悩のない四聖(声聞、縁覚、菩薩、仏)と、苦しみに満ちた六道(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄)から構成された「十界」を表しているそうです。

「十界曼荼羅図」の全体はこのような感じです。
「十界曼荼羅図」の白い帯状の霞より上部は、赤と白で彩色された日輪と月輪のもと、大きな山が画面を占め、天道と人道が表されています。

下の画面は山の右側と赤い日輪を拡大したものです。

とても見にくいですが、下図の右下には、桶の中で産湯をつかう赤ん坊と産婆の姿が見え、その左上には紅い衣をまとってハイハイする乳児が見えます。

この赤ちゃんは鳥居をくぐり、やがて少年から青年へと成長し、山の斜面を登っていきます。山の頂の少し前、扇を持ち振り返る女性とそれに応える男性がおり、この男性が結婚したことを表わしているようです。
下の画面は山の左側と白い月輪を拡大したものです。

山の頂で人生を折り返し、夫婦は坂を下りながら、やがて杖をつくなど老いていきます。

山のふもとに到達すると、生まれた時と同じように鳥居をくぐり、死を迎えたことを表しているようです。
下の画面の「十界曼荼羅図」の白い帯状の霞より下部は、修羅、畜生、餓鬼、地獄が表されています。

下の画面左上では、三途の川を渡る様子が描かれています。

さらに画面上部の中央のやや左の「業秤」によって生前の罪の重さが計られ、大抵の人は有罪判決を受け、苦を受ける身となるようです。

そこで用意されているのは四つの世界であり、修羅道(常に戦いをしている)、餓鬼道(常に空腹でありながら何も食べることが出来ない)、畜生道(動物として苦役を受ける)、そして血の海の地獄道です。
また、六道珍皇寺には、小野篁(おののたかむら)伝説があります。

小野篁(802年〜852年)は、嵯峨天皇につかえた平安初期の官僚で、武芸にも秀で、また学者・詩人・歌人としても知られていたようです。

なぜか小野篁は閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説があるようです。
下の写真は閻魔大王像と篁像が安置されている閻魔・篁堂です。
本堂背後には小さな庭園があります。
その庭園内には、篁が冥土へ通うのに使ったという冥土通いの井戸がありました。
篁は夜な夜な冥土通いの井戸から冥土に通い、閻魔大王を補佐していたようです。

下の写真は冥土通いの井戸です。
このような篁伝説は、「今昔物語」等にも書かれていたことにより、平安末期頃には篁が閻魔庁における第二の冥官であったとする伝説がすでに語り伝えられていたようですね。

また、六道珍皇寺近くの六道の辻には、幽霊子育飴を売る「みなとや幽霊子育飴本舗」がありました。
幽霊子育飴の伝説は以下のようです。

「慶長四年のある夜のこと、飴屋の主人が店じまいをしていると、あまり見かけない青白い顔をした女が「飴を1文売って欲しい」と店を訪れます。
夜遅くの来店と女性の雰囲気に妙な胸騒ぎを感じつつも、主人は女に飴を売ります。
次の日、また次の日も女は、夜に飴を買いに来て、主人は飴を売ります。
女性が店を訪れ、7晩がたったあくる日の朝。
主人が売り上げを勘定しようとすると、銭箱の中に1枚の樒(しきみ)の葉が入っていて、不思議に思い、例の女が怪しいと考えます。
その日の夜、また女が飴を買いに来た時に、主人は後をつけることにしました。後を追ってみると、女は墓場へと歩いて行きくではありませんか。
そして1つの墓の前まで来た所で、女の姿がスッと消えたかと思うと、墓の中から赤ん坊の泣き声が聞こえます。
主人が墓を掘り返すと、生きた赤ん坊が母親と同じ棺の中にいました。
埋葬後に出産した女が幽霊となって、三途の川の渡し賃である六文銭を使って飴を買い、7日目からは、お供えの樒の葉をお金に変えて飴を買っていた。」
これで冥界散歩を終わります。