京都散歩(15)-錦市場、寺町通、木屋町通-

京の台所である錦市場は、豊富な地下水を利用して京都御所へ新鮮な魚を納める店が集まったのが始まりのようです。写真は高倉通り側の錦市場の入り口です。
ここ錦市場は江戸時代の絵師伊藤若冲の生家である青物問屋があったところでもあり、若冲の絵が描かれたシャッタや垂れ幕が至る所にありました。
狭い通りには京野菜や新鮮そうな魚介類を売る店が多く立ち並び、沢山の観光客で賑わっていました。錦もちつき屋では、京の白味噌雑煮を初めて味わいました。
寺町通を越えた錦市場の東側に錦天満宮があります。錦天満宮の鳥居の両翼が建物の中に入ってしまっているのが面白いですね。区画を整理したとき鳥居の上部を考慮せず道幅を決めてしまったようです。写真は錦天満宮の鳥居です。
寺町通を北へ歩くと本能寺があります。信長が光秀に討たれた本能寺はこことは別の場所にあり、現在の本能寺は秀吉の京都改造計画によって移転されたようです。秀吉は東方からの攻撃を防ぐため現在の寺町通の周辺に寺院を移転させたようです。写真は本能寺の表門です。五度の火災にあっているため、ヒ(火)を嫌い「能」の「ヒ」が「去」となっていますね。
境内には信長公廟がありました。
本能寺から寺町通の東にある河原町通を歩くと坂本龍馬と中岡慎太郎が襲われ命を落としてしまった近江屋(醤油商)の跡の碑がありました。龍馬は海援隊の本部があった酢屋に下宿していましたが、池田屋事件の後、幕府から追われ、土佐藩の出入り商人であった近江屋に移っていたそうです。龍馬は、ここ近江屋で大政奉還後の政局について論じていたところ襲撃されて絶命したそうです。
また、河原町通の東にある木屋町通を四条通から三条通に向かって歩くと土佐藩邸跡や龍馬が下宿していた材木商の酢屋がありました。写真は現在も創作木工芸店として営業を続けている酢屋です。
酢屋の近くの三条通に池田屋騒動之跡の碑がありました。ここにあった旅館池田屋で長州藩や土佐藩の尊王攘夷志士が京都守護職配下の新選組により襲撃され、禁門の変を引き起こすきっかけとなったようです。現在は居酒屋のようですね。
さらに、木屋町通を歩くと高瀬川一之船入があります。高瀬川は京の豪商であった角倉了以(すみのくらりょうい)が1611年に開削した運河であり、大正時代まで京都―伏見間の水運に用いられたようです。高瀬川には、荷物の上げ下ろしや船の方向転換をするための「船入」が9か所に設けられており、一之船入は高瀬川の最上流に設けられていました。写真では高瀬川一之船入の碑の右奥に船入がかすかに望めます。
高瀬川に浮かぶ高瀬舟に伏見の酒が積まれていますね。
一之船入の近くに角倉氏邸の跡があり、現在は日本銀行の京都支店となっています。角倉了以は資材を投じて高瀬川を開削し、京都の発展に貢献したそうです。また、木屋町通の名は、高瀬川で搬入された木材や炭を商う店が多かったことに由来するそうです。
一之船入付近は長州藩邸があったところでもあり、現在は京都ホテルオークラがあります。写真は京都ホテルオークラの前の桂小五郎像です。
京の台所である錦市場と幕末志士が闊歩した寺町通と木屋町通の散歩を終わります。

京都散歩(14)-智積院-

智積院(ちしゃくいん)は、真言宗智山派総本山の寺院ですが、元は豊臣秀吉と対立した根来寺の塔頭であり、鶴松の菩提を弔うために秀吉が建立した祥雲寺を拝領した寺院のようです。
関ヶ原の戦いの後、智積院は家康から豊臣ゆかりの豊国神社の土地と建物を受け、豊臣氏滅亡後に隣接地にあった祥雲寺を拝領したようです。写真は本堂です。
智積院の宝物館には、秀吉の依頼により長谷川派が描いた障壁画が国宝として残されています。長谷川等伯は、33歳のころ能登七尾から本法寺に移り、京で絵師としての道を歩みます。しかし、当時の画壇は狩野派絵師集団の独壇場であり、等伯は狩野派に入門したり、町人相手の襖絵等を描いたりしていたようです。画像は等伯が描いた楓図です。
等伯は、51歳のころ、利休の支援を受け、大徳寺金毛閣の天井画等を描きました。これが認められ等伯は絵師としての地位を確立し、狩野派を抑えて秀吉から祥雲寺の障壁画の制作を依頼され、松に黄蜀葵(とろろあおい)図、楓図等、また息子久蔵は桜図等を描きました。写真は大書院の松に黄蜀葵図の複製です。
祥雲寺の障壁画の制作は狩野派が行うことが当然であった当時、等伯が秀吉から依頼されて障壁画を描いたのは、鶴松が亡くなったことが利休を切腹させたことによる祟りであるとの噂が流れ、それを払拭するため利休に近い等伯が選ばれたことによるという説があるようです。しかし、等伯が描く絵は狩野派に勝るとも劣らず、等伯は当時の京の画壇に新しい流れを作ったのかもしれませんね。写真は等伯の息子久蔵が描いた桜図の複製です。
久蔵は桜図を描いた後、26歳の若さで亡くなってしまいます。等伯は久蔵が亡くなった後、楓図を完成させました。楓図に描かれた楓の枝は下方に伸び、久蔵の死を嘆き悲しむ等伯の気持ちが表れているようです。写真は大書院の楓図の複製です。
大書院からは利休好みといわれる庭園が楽しめます。この庭園は春のつつじ、さつき咲く季節がきれいなようです。
知恵を積み徳を磨くの寺なればこの世を照らす法の灯(詠歌)
とありました。智積院の散歩を終わります。


京都散歩(13)-養源院-

養源院は、淀殿が父浅井長政の供養のため秀吉に願って建立され、その後、2代将軍秀忠の正室であり、淀殿の妹である江によって淀殿と秀頼の菩提が弔われた寺院です。さらにその後、火災により焼失した後、江の願いにより再建されたとき、伏見城の遺構が移され、徳川家の菩提所になったようです。写真は養源院の山門です。
養源院には、鷹峯の源光庵と同様に、伏見城の遺構である血天井がありました。また、俵屋宗達による杉戸絵や襖絵がありました。
山門から本堂へ続く参道です。
本堂の廊下は、血天井となっています。この血天井は、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見の戦いで西軍に敗れた鳥居元忠以下の武将が自刃したときの血の跡が残ったもののようです。上杉景勝征伐に会津に向かっていた家康は、三成に伏見城を攻めさせるために、元忠をはじめとした僅かな軍勢で伏見城を守らせたようです。元忠は家康に忠義を尽くすため最初から玉砕覚悟で戦い、降伏することなく最後まで戦ったようです。家康は、元忠の忠義を終生忘れず、その後の鳥居家を保護したようです。
また、本堂には、俵屋宗達によって描かれた杉戸の像、唐獅子、麒麟や襖絵がありました。この杉戸絵などは伏見城で自刃した将兵の霊を供養するために描かれ、当時無名だった俵屋宗達が認められるきっかけとなったようです。一説によると、江が襖絵などの制作を狩野派に依頼したが、遅々として進まなかったため、本阿弥光悦等に相談したところ俵屋宗達が紹介されたようです。写真は杉戸の像のポスターです。教科書等でおなじみの像の絵ですね。
養源院の散歩を終わります。

京都散歩(12)-知恩院-

知恩院は、金戒光明寺と同様に、法然上人を開基として建立され、浄土宗徒であった徳川家康によって大きな伽藍が建設されたようです。写真は秀忠によって寄進された三門であり、その大きさに圧倒されます。
知恩院も京都における徳川家の拠点とすることや徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制するために大きな伽藍が建設されたようです。写真は黒門です。
知恩院では、二条城二の丸御殿とおなじく狩野派による金碧障壁画が飾られた大方丈と水墨画が飾られた小方丈があり、公開されていました。
写真は三門下の葵の御紋と男坂です。
三門を過ぎると男坂があります。男坂は段差が大きく、知恩院の威厳を感じる石段でした。
境内には、狩野派による金碧障壁画や襖絵がある大方丈があり、その大方丈の上段の間は江戸時代に将軍が大名と謁見するときに使用されたそうです。知恩院は城のように使われていたようですね。写真は方丈庭園です。
方丈庭園には家光御手植えの松がありました。
(追)
金戒光明寺から知恩院へ行く途中に琵琶湖疎水から流れる白川がありました。写真は三条通白川橋です。「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と書かれていました。
白川の近くに光秀の首塚がありました。諸説あるようですが、「天正10年(1582)、本能寺にいた主君織田信長を急襲した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹薮で農民に襲われて自刃、最後を遂げたと言われる。 家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている。」とありました。
光秀の首塚を守っているのが和菓子の餅寅さんです。餅寅さんは光秀の子孫からの依頼により代々光秀の首塚を守っているそうです。
知恩院の散歩を終わります。

京都散歩(11)-金戒光明寺-

金戒光明寺は、法然上人を開基とする浄土宗の寺院であり、幕末期に会津藩主松平容保(かたもり)が就任した京都守護職の本陣が置かれ、また新選組発祥の地とされています。写真は山門であり、応仁の乱で焼失しましたが、京都守護職の本陣が置かれる2年前の1860年に再建されたようです。
松平容保は、18歳で会津藩第9代の藩主となり、幕府からの要請により28歳で京都守護職に就任したようです。このとき、容保は京都守護職への就任を固辞しましたが、会津藩祖であり、将軍家への忠誠心が厚い保科正之(3代将軍家光の異母弟)が残した家訓(かきん)を持ち出され奉命を決心したようです。そして、容保は1862年金戒光明寺に入りました。写真は金戒光明寺の城門のように建てられた高麗門であり、左の柱に「会津藩松平肥後守様 京都守護職本陣」と書かれた板が掛けられていました。
容保は金戒光明寺に藩兵1000人を常駐させましたが、攘夷討幕の過激派志士により治安が悪化した京都の街を鎮静させることができなかったようです。この様な状況下、将軍警護のため江戸小石川伝通院を出立してきた浪士組の近藤勇や芹澤鴨が光明寺で容保に拝謁し、その浪士組は新選組となりました。
金戒光明寺は、江戸時代初期徳川家により城構えに改められていたこと、御所に近いことなどの理由により、京都守護職が置かれたようです。写真は広大な境内に建つ御影堂です。
大方丈には会津藩士の鎧兜や松平容保ゆかりの品が展示されていました。写真は大方丈の前庭です。
大方丈庭園はきれいな枯山水庭園でした。
境内の西奥に会津藩殉難者墓地がありました。ここ会津藩殉難者墓地には禁門の変や鳥羽伏見の戦いで亡くなられた会津藩の人達の霊が祀られていました。
また、境内の奥の高台に三重塔が建てられています。この三重塔は2代将軍秀忠の菩提を弔うために建立されたようです。
三重塔が建つ場所からは京都市内を一望できます。金戒光明寺は、京都御所を一望できる高台にあったことから徳川家が朝廷を監視するために城郭構造に改められていたようですね。写真は三重塔から見た山門と京都市内です。
金戒光明寺の塔頭である西翁院からは西からやって来る敵を天王山、淀川あたりまで見渡せたようです。写真は西翁院です。
(追)
松平容保は、八月十八日の政変で長州藩士を京都から追放し、孝明天皇から絶大な信頼を得ました。しかし、薩長同盟が成立し、また孝明天皇が亡くなると、倒幕の流れが強くなり、次第に幕府の勢力が弱まっていきます。容保は、朝敵となり鳥羽伏見の戦いに敗れると、徳川慶喜とともに開陽丸に乗って大阪から江戸に逃げ帰り、その後会津に入ります。写真は容保と慶喜が上陸した浜離宮庭園の将軍お上りの場です。
江戸無血開城がされると、新政府軍は会津藩を攻撃し、容保は降伏します。会津戦争に敗れた容保は、助命されましたが謹慎となり、その後、日光東照宮や上野東照宮の宮司を務め、明治26年に小石川で亡くなりました。写真は会津若松の松平家の廟所にひっそりと佇む松平容保の墓です。
松平容保は、徳川家への忠誠を最後まで失うことなく、激動の時代を生き抜いた人だったのですね。