関ヶ原の戦いの後、智積院は家康から豊臣ゆかりの豊国神社の土地と建物を受け、豊臣氏滅亡後に隣接地にあった祥雲寺を拝領したようです。写真は本堂です。
智積院の宝物館には、秀吉の依頼により長谷川派が描いた障壁画が国宝として残されています。長谷川等伯は、33歳のころ能登七尾から本法寺に移り、京で絵師としての道を歩みます。しかし、当時の画壇は狩野派絵師集団の独壇場であり、等伯は狩野派に入門したり、町人相手の襖絵等を描いたりしていたようです。画像は等伯が描いた楓図です。
等伯は、51歳のころ、利休の支援を受け、大徳寺金毛閣の天井画等を描きました。これが認められ等伯は絵師としての地位を確立し、狩野派を抑えて秀吉から祥雲寺の障壁画の制作を依頼され、松に黄蜀葵(とろろあおい)図、楓図等、また息子久蔵は桜図等を描きました。写真は大書院の松に黄蜀葵図の複製です。
祥雲寺の障壁画の制作は狩野派が行うことが当然であった当時、等伯が秀吉から依頼されて障壁画を描いたのは、鶴松が亡くなったことが利休を切腹させたことによる祟りであるとの噂が流れ、それを払拭するため利休に近い等伯が選ばれたことによるという説があるようです。しかし、等伯が描く絵は狩野派に勝るとも劣らず、等伯は当時の京の画壇に新しい流れを作ったのかもしれませんね。写真は等伯の息子久蔵が描いた桜図の複製です。
久蔵は桜図を描いた後、26歳の若さで亡くなってしまいます。等伯は久蔵が亡くなった後、楓図を完成させました。楓図に描かれた楓の枝は下方に伸び、久蔵の死を嘆き悲しむ等伯の気持ちが表れているようです。写真は大書院の楓図の複製です。
大書院からは利休好みといわれる庭園が楽しめます。この庭園は春のつつじ、さつき咲く季節がきれいなようです。
とありました。智積院の散歩を終わります。