京都散歩(22)-建仁寺- 安国寺恵瓊と海北友松

 建仁寺は、臨済宗建仁寺派の大本山であり、栄西(ようさい)禅師が建立した禅寺です。京都には沢山の禅寺がありますが、最も大きな禅寺が妙心寺、最も格式が高いのが南禅寺、そして京都最初の禅寺が建仁寺ですね。写真は勅使門です。
栄西は、宋から禅の教えを持ち帰るとともに、茶種を持ち帰り茶の法を普及させた茶祖であるようです。写真は松林の中に建つ三門です。
建仁寺では、4月20日の栄西の誕生日に茶道の原形とされる古式にのっとった禅宗式の茶会である四頭(よつがしら)茶会が開かれるそうです。写真は境内にある茶碑です。
栄西が祀られている開山堂
建仁寺は、応仁の乱等により衰退しましたが、臨済宗の僧でありながら武将および外交僧として活躍した安国寺恵瓊によって方丈などが移築され復興したそうです。写真は杮葺きの屋根の曲線が美しい方丈です。
方丈とは本来は1丈(10尺)四方(約四畳半)をいいますが、仏教では住職が生活する建物を方丈と呼ぶようになったようです。写真は四畳半よりはるかに大きい方丈から見た大雄苑と呼ばれる前庭園であり、奥に見える建物は双竜図が天井画として描かれている法堂です。
安国寺恵瓊は、関ケ原の戦いの前年の1599年に安芸の安国寺から方丈を移築して建仁寺を復興させました。恵瓊は、方丈を移築したとき、東福寺で繋がりがあった海北友松(かいほうゆうしょう)に襖絵を描かせたようです。写真は、方丈襖絵の雲龍図(複製)です。
海北友松は、近江浅井家の家臣の家に生まれ、若年を東福寺で過ごした後、還俗して狩野派の門を敲き、画の道に進んだようです。写真は、方丈襖絵の竹林七賢図(複製)です。
このように方丈を移築して建仁寺を復興させた恵瓊は、翌年の関ケ原の戦いで敗れ、関ケ原から建仁寺に逃れてきたそうです。建仁寺の僧侶は、徳川軍から恵瓊を引き渡すように要求されましたがその要求を拒むと、伽藍をすべて焼き払うと言われたそうです。それを聞きつけた恵瓊は、建仁寺が焼かれてしまうことを防ぐため自ら出頭し、石田三成らとともに六条河原で斬首されたそうです。僧侶は建仁寺の復興に尽力した恵瓊を弔うため、鴨川に流された恵瓊の首を下流で拾い、懐に入れて持ち帰りここ建仁寺に埋葬したと伝わるそうです。写真は方丈の裏にひっそりと佇む安国寺恵瓊の首塚です。
また、方丈の裏には、秀吉が催した北野大茶会の際に千利休の高弟・長盛(真如堂の塔頭東陽坊の住職)が好んだと伝えられる茶室である東陽坊があります。この東陽坊は、規範的な二畳台目であって、下座に床を構えた茶室であり、窓が小さく少ないことから利休風のようです。写真は東陽坊です。
小書院と大書院の間の潮音庭は、新緑と立て石の対照がきれいでした。
大書院には、お馴染みの俵屋宗達の風神雷神図屏風(複製)がありました。
沢山の観光客が訪れる建仁寺は安国寺恵瓊と深い繋がりがあったのですね。
(追)
建仁寺近くの石塀小路
京都国立博物館では海北友松展が開催され、建仁寺の方丈の襖絵である重要文化財の雲龍図や竹林七賢図を見ることができました。
京都国立博物館の明治古都館は、迎賓館赤坂離宮などを設計した片山東熊によるものです。迎賓館赤坂離宮と同様に左右の対象が美しい建物ですね。
安国寺恵瓊と海北友松ゆかりの建仁寺の散歩を終わります。