崇伝は、足利将軍家の側近でしたが室町幕府が消滅すると南禅寺で出家し、建長寺などの住職を経て南禅寺の住職となり、家康に招かれて幕政に参画するようになったようです。写真は金地院の庫裏です。
崇伝は、武家諸法度や禁中並公家諸法度を起草したことでも知られ、また大坂夏の陣の発端となった方広寺の鐘銘事件に関与したともいわれていますね。写真は方広寺の梵鐘です。
また、崇伝は、家康の遺言「京都には南禅寺中金地院に小堂をいとなみ・・・」に従って金地院に東照宮を建立しました。金地院の東照宮は小堀遠州によって作られたそうです。写真は東照宮の拝殿です。
東照公遺訓「人の一生は重荷を負って遠く道を行くが如し、いそぐべからず・・・」現世にも通ずる遺訓ですね。
拝殿の葵の御紋
境内の奥には開山堂がありました。
開山堂に安置されている崇伝の像です。開山堂から方丈前の鶴亀の庭へ
鶴亀の庭は、大名でありながら、茶人、建築家、作庭家、書家としても知られた小堀(政一)遠州が作庭したそうです。遠州が作庭したと伝わる庭園は数多くありますが、確かな記録が残っているのはこの鶴亀の庭だけのようです。
庭園の右側に常緑樹が植えられた鶴、左側に落葉樹が植えられた亀が配置され、中央に東照宮を拝むための遥拝石が置かれています。写真は鶴亀の庭です。
鶴亀の庭のパノラマ写真です。
この後、特別拝観で方丈の内部、小堀遠州が建てた茶室である八窓席等を見学しました。八窓席は、崇伝の依頼により小堀遠州の設計で建てた三畳台目の茶室であり、沢山の窓(窓は6つですが八窓)から外光を取り入れる構成としています。また、躙り口は土間との間に縁が設けられていました。利休が好んだ二畳台目より広く、外光を取り入れて明るくし、また躙り口は土間と直結していない構成は古田織部の影響を受けているのかもしれませんね。
茶室の隣の間には、長谷川等伯筆の猿猴捉月図がありました。猿猴捉月図は、手長猿が手を伸ばして水面に映った月を取ろうとしている襖絵であり、猿の毛のフワフワとした感触が伝わってくるものでした。
徳川将軍家と以心崇伝ゆかりの金地院の散歩を終わります。