11.能登散歩 -長谷川等伯と前田家ゆかりの地を訪ね-

石川県七尾と富山県高岡を散歩しました。
まず、和倉温泉で有名な七尾へ
写真は和倉温泉近くの能登島大橋です。
七尾は、桃山時代から江戸時代初期に活躍した絵師長谷川等伯の生誕の地であり、また織田信長の命により前田利家が旧加賀藩初代藩主として入城した地ですね。写真の七尾美術館では、「天才絵仏師、みやこを目指す!」と題された長谷川等伯展が行われていました。
等伯は、前田利家が七尾に入城する前に、七尾を治めていた畠山氏に仕える下級家臣奥村家に生まれ、幼い頃、長谷川家に養子に入ったそうです。その後、等伯は養父により絵の手ほどきを受け約32年間をここ七尾で仏画を描く絵仏師として過ごしたようです。写真は等伯が生まれた奥村家の菩提寺である本延(ほんねん)寺です。
七尾時代の等伯は涅槃図などの仏画を描き生計を立てていたようで、本延寺を始め羽咋や高岡の寺院に現在も多くの仏画が所蔵されているようです。写真は等伯筆の涅槃図が所蔵されている本延寺です。
一方、七尾の畠山氏が上杉謙信によって滅ぼされると、前田利家が七尾城に入城し、山城だった七尾城から港に近い小丸山城を築城し移住しました。そして、利家は賤ケ岳の合戦後、秀吉の命により金沢に移ったそうです。写真は七尾の小丸山城跡の碑です。
小丸山城跡には長谷川等伯出生地の碑がありました。
七尾駅前では「長谷川等伯生誕の地」を前面に押し出し観光客にアピールしてますね。
ゆるキャラの「とうはくん」
等伯は、33歳の時、絵仏師でなく絵師として京の中央画壇での活躍を夢見て妻と息子久蔵を連れて七尾を発ち、京に向かったようです。この頃の等伯は、既に京の狩野永徳たちの活躍を知っていたようで、絵仏師より襖絵などの障壁画を描く絵師になることを望んでいたようです。写真は七尾港の近くにある等伯像です。等伯は期待と不安を抱え空を見上げているのでしょうね。
等伯は、本延寺の本山である京都の本法寺(京都散歩(5)、(18))を頼り、絵の修行に励みますが約18年間の長い間は鳴かず飛ばずの状態だったようではっきりした記録は残っていないようです。等伯51歳の時、本法寺の住職の繋がりで千利休に出会い、大徳寺の山門金毛閣の障壁画の制作を任せられるとその才能が認められ、有名絵師の仲間入りを果たしたそうです。写真はこの時代に描かれた大徳寺三玄院の襖絵の複製(京都散歩(23)圓徳院で撮影)です。写真では分かり難いですが、桐紋を雪に見立て写真右に船と船頭、中央より少し左に息子久蔵を背負い笠を被った妻、そして写真の左端に船を下りて歩く等伯の丸い背が薄く描かれています。七尾を発ち京に向かった等伯の心情がこの襖絵に表れていますね。
この後、等伯は、秀吉の命により聚楽第の障壁画や現在の智積院(京都散歩(14))の障壁画の制作を任され、息子久蔵とともに長谷川派を確立し、狩野派と並ぶ存在となり、名実ともに京都中央画壇の絵師となっていきます。写真は等伯の生家奥村家が仕えていた畠山氏の居城七尾城址です。
狩野派を強く意識して描いた智積院の障壁画が完成する前年に利休が自刃し、また息子久蔵が26歳で亡くなると、その悲しみを背負った等伯は、国宝「松林図屏風」を描いたそうです。大切な人を失った等伯は、水墨画にその境地を求め、郷里七尾の松林を思いながら「松林図屏風」を描いたともいわれているようです。写真は、七尾城址から望む七尾市内と能登島です。等伯もこの風景を見ていたのでしょうか。
松林図屏風
七尾から高岡へ
高岡は、2代加賀藩主前田利長が隠居後に築いた高岡城の城下町として発展した町のようです。写真は高岡古城公園です。
また、高岡には3代加賀藩主前田利常が利長の菩提を弔うために整備した富山県唯一の国宝である瑞龍寺があります。写真は瑞龍寺の参道と山門です。
俗世間を詳しく知っている住職による瑞龍寺の案内はとても楽しいものでした。下の写真は法堂です。境内に芝生を配しているのはとても珍しいですね。なお、この芝生は平成になってから整備されたようです。
高岡から見た霊峰立山連峰です。写真の中央から右にかけてなだらかに横たわる高原が弥陀が原のようです。
長谷川等伯と前田家ゆかりの能登の散歩を終わります。