京都散歩(37) 実相院門跡 -岩倉具視-

洛北の岩倉にある実相院は、鎌倉時代に創建されましたが応仁の乱などで荒廃し、その後に皇室と徳川家光の援助を受けて再建された門跡寺院であり、幕末期には岩倉具視が一時住んでいたようです。写真は実相院門跡の四脚門です。
書院前には、「こころのお庭」と題された現代風の石庭園がありました。三日月型のオブジェは波を表しているそうです。
実相院には、岩倉具視が幕末志士と交わした密談の記録が残っていました。岩倉具視は、大河ドラマなどでは討幕派の黒幕のように描かれていましたが、激動の幕末期を生き、新政府樹立に貢献した功績はとても大きなものと考えられますね。写真は書院西側の池泉庭園です。
岩倉具視は、公卿堀河家の次男周丸として生まれ、14歳で岩倉家に養子に入り、岩倉具視と名乗ったそうです。具視は、幼少の頃からその才能を見込まれ、30歳頃には孝明天皇の侍従となり、日米修好通商条約締結に反対する意見を内奏するなど徐々に政治に関与するようになったようです。江戸幕府が安政の大獄を行い朝廷と幕府の関係が悪化する中、具視は朝廷と幕府の関係強化(公武合体)を図るため皇女和宮の降嫁を成功させます。このことにより具視は親幕派とみなされ、尊王攘夷派の公卿などによって京都から追放され、ここ実相院がある岩倉村で5年間の蟄居生活を行ったそうです。写真は具視が蟄居生活を送った岩倉具視幽棲旧宅の表門です。
岩倉村に蟄居した岩倉具視の下には薩摩藩の志士たちが訪れ、具視は薩摩藩の動向に応じ立場を公武合体派から討幕派へと変更したようです。写真は蟄居中に来客が多かったため増築した鄰雲軒(りんうんけん)と呼ばれる主屋です。
討幕派となった具視は、政治への参画が許されると王政復古の大号令により新政府樹立の足がかりを作り、明治新政府に参画していったようです。具視が蟄居していた頃、蛤御門の変、孝明天皇の崩御、大政奉還などが起こりました。具視は、そのような激変の社会状勢の中、ここ岩倉具視幽棲旧宅の地で新しい日本の姿を考えていたのかもしれませんね。このように明治新政府の樹立に貢献した具視は59歳で癌のため亡くなり、日本初の国葬が行われたそうです。写真は岩倉具視の遺髪を埋葬した塚です。
岩倉具視は、新しい日本の樹立に大きく貢献しましたが、京都の人からあまり良く思われていないようです。その理由は、皇女和宮の降嫁を進め、京から未開の地(?)である江戸へ皇女を嫁に出すことに大きな抵抗感があったことによるそうです。
京都の人にとって関東は未開の地と思われているのかもしれませんね。
実相院門跡の散歩を終わります。

(追)
京都歴史資料館の「岩倉具視の生きた時代」の展覧会で貴重な品々を見学しました。

京都散歩(35) 壬生、神泉苑、頂法寺

壬生の八木邸へ
八木邸は、新選組の屯所として使われました。清河八郎率いる浪士組が将軍家茂の警護のために上洛したときに宿舎として使用されたのが八木邸だったようです。この時、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三などが京都守護職会津藩主松平容保の配下に属して新選組と名乗ったようです。写真は八木邸
水戸藩浪士だった芹沢鴨は、新選組の初代局長となりましたが、気性が荒く京や大阪で乱暴を働き問題となったようです。このような事態に手を焼いた松平容保は近藤に芹沢の処置を命じたといわれています。そして、近藤や土方たちは酒に酔った芹沢をここ八木邸で暗殺してしまいました。写真は芹沢が暗殺された八木邸の玄関です。
八木邸の近くには壬生寺があります。
壬生寺の境内は新選組の兵法調練場に使用され、砲撃の訓練などが行われたようです。写真は壬生寺
また、壬生寺の境内には新選組隊士の墓や近藤勇の胸像がありました。現在はマニア等に人気のある新選組ですが、明治期後、新政府に抗った新選組に関する多くの資料は処分されてしまったようですね。
「酒を飲まなければ、いい人だった・・・」と言われた芹沢鴨の墓
壬生から北へ歩くと二条城の南に神泉苑があります。
神泉苑は、現在は東寺真言宗の寺院でありますが、元は平安京大内裏の南に接して造られた天皇のための庭園だったそうです。写真は神泉苑の鳥居と善女竜王社
神泉苑には、季節を問わず、またどんな日照りの年にも決して枯れることがないといわれる池があります。ここ神泉苑では、西寺の僧と東寺の空海が雨乞いを競い、善女竜王を勧請した空海が勝ったと伝わるそうです。勝った東寺は残り、負けた西寺はなくなってしまった・・・ともいわれているようですが、定かではありません。写真は神泉苑の池に架かる法成橋(ほうじょうばし)
また、神泉苑は平安期の寝殿造庭園の面影を残す貴重な京都最古の日本庭園ともいわれています。寝殿造庭園とは、寝殿の正面(南側)に、遣水から中島のある池に水を流し込むように造られた庭園のようです。写真は池と屋形船
神泉苑から京都文化博物館へ
京都文化博物館の別館は、明治後期に建築家辰野金吾の設計により建てられたかつての日本銀行京都支店です。赤煉瓦に白い花崗岩を配した辰野式建築ですね。写真は京都文化博物館の別館
別館の内部は当時の銀行の様子を残していますね。
京都文化博物館から頂法寺へ
頂法寺は、聖徳太子により創建され、いけばな発祥の地として六角堂の名で知られているようです。写真は平面六角形の頂法寺の本堂です。
頂法寺は、太子がここの池で身を清めることになり、念持仏を木にかけたところ動かなくなったことから、ここに六角形のお堂を建てたのが始まりだそうです。写真は頂法寺の扁額
頂法寺の池のほとりは、小野妹子を始祖とする僧侶の住坊があり、「池坊」と呼ばれるようになったそうです。代々頂法寺の住職を務める池坊は、仏前に花を供える中で様々な工夫を加え、室町時代の「いけばな」に至ったそうです。写真は池の上に建つ太子堂
池坊のいけばなには、立花・生花・自由花という三つの花形があるようで、そのうち最も古い立花を大成したのが、江戸時代初期に活躍した三十二世池坊専好のようです。写真は池坊専好立花のモニュメント
池坊の名の由来は頂法寺にあったのですね。
壬生、神泉苑、頂法寺の散歩を終わります。

京都散歩(34) 嵯峨野

外国人にも大人気の嵯峨野の竹林
亀山公園から見た保津川と小倉山
保津川は1606年に角倉了以により開削工事が行われ、丹波と京都とを結ぶ物資輸送の舟運が整備されたそうです。
 保津川と船
 保津川の近くにある嵯峨豆腐料理の松籟庵
松籟庵は、日米の開戦直前まで内閣総理大臣だった近衛文麿の別邸を改築したそうです。
 店先の灯篭が京都らしいですね。
 松籟庵の店主は書道家であり、店内には店主筆の掛け軸がありました。
 昼食の献立
 八寸 稲穂揚げが秋(10月)らしいですね。
御髪神社、ご利益がありますように
 落柿舎
小倉山二尊院の総門
この総門は、角倉了以が伏見城の薬医門を移築したようです。
 角倉家の菩提寺でもある二尊院の参道
 釈迦と阿弥陀の二つの如来像(二尊)を安置する本堂
 後奈良天皇筆の勅額
 二尊院、藤原定家時雨亭跡(百人一首選定の遺蹟)とされる小倉山中腹から望む京都市内
清涼寺(嵯峨釈迦堂)の仁王門
清涼寺には、大阪城三の丸で発見された豊臣秀頼と推定される遺骨が埋葬されているそうです。
本堂(釈迦堂)
本堂北の渡り廊下から弁天堂を望む
嵯峨野の散歩を終わります。

京都散歩(33) 天龍寺 -夢窓疎石-

天龍寺は、臨済宗天龍寺派の大本山であり、南禅寺に次ぐ京都五山一位の禅寺ですね。天龍寺の山号は霊亀山であり、小倉山(亀山)に因んでつけられたそうです。写真は渡月橋と、その背後の亀の甲のように丸い小倉山です。
天龍寺は、足利尊氏が後醍醐天皇を弔うため、亀山天皇の離宮だった亀山殿が寺に改められたそうです。尊氏は後醍醐天皇が始めた建武の新政に反発し、後醍醐天皇と対立しましたが、禅僧夢窓疎石(むそうそせき)の勧めにより、禅宗の「怨親平等」の教えに従い天龍寺を建立したそうです。
天龍寺は、創建当時、嵐山を含む広大な寺領を有していたそうです。建物は火災や応仁の乱、禁門の変などで焼失し、伽藍の大部分は明治期以降のものようです。写真は庫裏です。
庫裏に入るとお馴染みの達磨図がありました。
多宝殿には後醍醐天皇の木造が安置されていました。
方丈の前には夢窓疎石が室町時代に作庭したといわれる曹源池庭園が広がります。曹源池庭園は、禅僧の修行のために造られた庭であり、参拝者がいなくなった夜間などに、禅僧が庭園に向かって方丈に座り、修行を行うそうです。写真は大方丈から見た曹源池庭園です。背後の嵐山が借景となっています。
曹源池庭園は、池の手前に白砂で日本の州浜が表現され、池の対岸に石組みで中国の荒磯が表現され、背後の嵐山と亀山を借景とし奥行きをもたせているそうです。なだらかな州浜で表した王朝文化と石組みや借景で表した禅宗文化が融合していますね。写真は背後の亀山を借景とした曹源池です。
曹源池の中央正面には、龍門の滝の石組みが配されています。龍門の滝は、中国の登竜門の故事になぞらえて作られ、鯉が滝を上る姿を表しているそうです。写真は龍門の滝の石組みです。
曹源池の名は、夢窓疎石が池の泥をかき上げたとき、「曹源一滴」と書かれた石碑が現れたことに由来するそうです。「曹源一滴」とは、「一滴の水は命の水であり、あらゆるものの根源」という意味を表しているそうです。写真は小方丈から見た曹源池庭園です。
また、禅宗は禅の修行によって人間の真の生き方を悟ろうとするものであり、その禅宗の教えを修行僧に伝えるために禅宗庭園が作られ、この曹源池庭園は夢窓疎石の教えを表しているそうです。写真は大方丈と曹源池です。
この曹源池庭園から夢窓疎石の教えを読み取ることはとても難しいことですが、石組みや借景などの「みたて」により、何事も無駄にしないことが大切であることは理解できるような気がします。
天龍寺の散歩を終わります。