書院前には、「こころのお庭」と題された現代風の石庭園がありました。三日月型のオブジェは波を表しているそうです。
実相院には、岩倉具視が幕末志士と交わした密談の記録が残っていました。岩倉具視は、大河ドラマなどでは討幕派の黒幕のように描かれていましたが、激動の幕末期を生き、新政府樹立に貢献した功績はとても大きなものと考えられますね。写真は書院西側の池泉庭園です。
岩倉具視は、公卿堀河家の次男周丸として生まれ、14歳で岩倉家に養子に入り、岩倉具視と名乗ったそうです。具視は、幼少の頃からその才能を見込まれ、30歳頃には孝明天皇の侍従となり、日米修好通商条約締結に反対する意見を内奏するなど徐々に政治に関与するようになったようです。江戸幕府が安政の大獄を行い朝廷と幕府の関係が悪化する中、具視は朝廷と幕府の関係強化(公武合体)を図るため皇女和宮の降嫁を成功させます。このことにより具視は親幕派とみなされ、尊王攘夷派の公卿などによって京都から追放され、ここ実相院がある岩倉村で5年間の蟄居生活を行ったそうです。写真は具視が蟄居生活を送った岩倉具視幽棲旧宅の表門です。
岩倉村に蟄居した岩倉具視の下には薩摩藩の志士たちが訪れ、具視は薩摩藩の動向に応じ立場を公武合体派から討幕派へと変更したようです。写真は蟄居中に来客が多かったため増築した鄰雲軒(りんうんけん)と呼ばれる主屋です。
討幕派となった具視は、政治への参画が許されると王政復古の大号令により新政府樹立の足がかりを作り、明治新政府に参画していったようです。具視が蟄居していた頃、蛤御門の変、孝明天皇の崩御、大政奉還などが起こりました。具視は、そのような激変の社会状勢の中、ここ岩倉具視幽棲旧宅の地で新しい日本の姿を考えていたのかもしれませんね。このように明治新政府の樹立に貢献した具視は59歳で癌のため亡くなり、日本初の国葬が行われたそうです。写真は岩倉具視の遺髪を埋葬した塚です。
岩倉具視は、新しい日本の樹立に大きく貢献しましたが、京都の人からあまり良く思われていないようです。その理由は、皇女和宮の降嫁を進め、京から未開の地(?)である江戸へ皇女を嫁に出すことに大きな抵抗感があったことによるそうです。
京都の人にとって関東は未開の地と思われているのかもしれませんね。
実相院門跡の散歩を終わります。
(追)
京都歴史資料館の「岩倉具視の生きた時代」の展覧会で貴重な品々を見学しました。