京都の日本庭園 #4 -池泉式庭園-

安土桃山時代末期から江戸時代にかけて豊臣秀吉、徳川家康らが豪華な池泉式庭園を築きました。その池泉式庭園にも蓬莱島や鶴島、亀島の石組みが造られましたが、禅の教えを表現するものではなく長寿を願ったもののようです。
庭園に池があれば池泉式庭園になるので寝殿造り庭園、浄土式庭園、書院造庭園も池泉式庭園となりますが、ここでは江戸時代以降の大名などによる池泉式庭園(大名庭園など)に着目します。

池泉式庭園には、池泉回遊式庭園、池泉舟遊式庭園、池泉座観式庭園などがあります。

二条城の二の丸庭園

二の丸庭園は、二の丸御殿の大広間や黒書院からの美観を意識した書院造庭園であるとともに、池泉回遊式庭園でもあります。池泉回遊式庭園は、池泉を配置した園内を回遊して鑑賞する庭園であり、築山、池泉と小島、橋、名石を配し、各地の名勝等を再現した庭園です。江戸時代の書院は、質素な書斎として使用された室町時代の書院とは異なり、対面の場として使用されるようになり、権力を誇示する豪華な造りになったため、庭園も豪華なものになっていきました。この二の丸庭園も大きな池泉に蓬莱島と石橋を配し、護岸に巨石を配して将軍の権力を誇示していますね。上の写真は普段入場することができない二の丸庭園内から黒書院の方向(南から北方向)を撮影したものであり、池に浮かぶ蓬莱島に石橋が架っています。

二条城二の丸庭園(庭園北から蓬莱島を望む)

二の丸庭園は、1603年の二条城の造営時に作庭され、後水尾天皇行幸の時(1619年)に家光の命で小堀遠州の手により改修されたようです。しかし、行幸後、約200年にわたり将軍が上洛することはなかったので庭園は荒れ果て、慶喜上洛時には樹木は殆どなく、池は枯れ果てていたようです。そして、大政奉還後、時代が明治に移ると二条城は離宮・迎賓館として使用され、庭園も改修されて現在の景観になったようです。

二条城二の丸庭園、蓬莱島(中央)と亀島(右)

禅宗庭園では不老不死の理想郷を表した蓬莱島に決して到達できないという教えを伝えてきましたが、二の丸庭園では蓬莱島に石橋がかけられています。これは、時の権力者は自由に蓬莱島に行くことができ、叶わないことは何もないことを表しているのかもしませんね。また、二の丸庭園の北東に蘇鉄が植えられています。江戸時代、南方の蘇鉄はとても珍しく権力の象徴だったそうです。京都の庭園で蘇鉄が植えられていたのは、離宮の庭園や西本願寺庭園、そして二条城二の丸庭園だったそうです。

写真は藁が巻かれた冬の桂離宮の蘇鉄です。この蘇鉄は権力の象徴なのですね。

東本願寺の飛地境内にある渉成園(江戸時代初期)

将軍家光から東本願寺に寄進された地に、石川丈山によって作庭されたと伝わる池泉回遊式庭園です。東本願寺の西方にあり、秀吉の庇護を受けた西本願寺に対抗するかのように、この渉成園は大きな池を配した庭園になっています。上の写真は造営当時の面影を残す印月池に架かる曲線が美しい侵雪橋です。この橋に雪が積もると一層美しくなるようです。

大書院から見た智積院の庭園(池泉座観式庭園:江戸時代初期)

池泉座観式庭園は、池泉を配し、書院や座敷から鑑賞する庭園であり、智積院の庭園は大書院に面して大きな築山を配し、室町時代の書院造庭園より豪華な庭園となっています。築山の躑躅やサツキの刈り込みが特徴となっており、築山と護岸石組で深山幽谷を表しているようです。
このように、太平の世になると、権力者の力を誇示するかのように豪華な庭園が造られるようになってきました。

(参考)
江戸の池泉式庭園

浜離宮庭園(徳川将軍家の別邸)

 小石川後楽園(水戸徳川家上屋敷)

 清澄庭園(下総関宿藩下屋敷→三菱財閥岩崎家)

六義園(柳沢吉保下屋敷)

御所と離宮の庭園へ続く