京都散歩(41) 萬福寺

萬福寺は、黄檗宗(おうばくしゅう)大本山の寺院であり、中国の僧、隠元を開山として建立されたことで知られていますね。写真は三門です。
隠元は、1654年に来日し、江戸幕府から与えられた宇治の地に、故郷の黄檗山萬福寺と同名の萬福寺を建立したようです。中国から沢山の文化が伝えられた萬福寺は、伽藍などに中国色が色濃く残っています。写真は総門であり、左右の屋根が低い牌楼(ぱいろう)式といわれる中国的な門のようです。
総門をくぐると三門が見えてきます。三門は、空門、無相門、無願門の三境地を経て悟りの世界に入る門(三解脱門)のようです。写真は三門です。
三門から天王殿へ続く参道の石の配置がきれいですね。
弥勒菩薩の化身とされる布袋像を安置する天王殿
天王殿の布袋像
天王殿の奥の斎堂(食堂)の脇に開梆(かいぱん)と呼ばれる木製の大きな魚がありました。この開梆を叩いて食事や法要の時間を知らせるようです。
開梆を叩くためのバットのようなものがありました。
屋根の形状が美しい法堂
法堂の南の大雄宝殿の内部には隠元像がありました。隠元は、中国から禅宗の教えを日本に伝えるとともに、明の書をはじめとする中国文化を伝え、またインゲン豆の名を残し、さらに日本における煎茶道の開祖とされているようです。この頃、伝えられた明の仏典などに明朝体が使われていたことから日本でも明朝体が使われるようになったようです。
法堂から見た大雄宝殿、手前が卍崩しの欄干
寿塔
開山堂の卍の欄干
萬福寺の散歩を終わります。

京都散歩(40) 銀閣寺 -和風住宅様式の原流、東求堂-

沢山の参拝客でにぎわう銀閣寺(東山慈照寺)は、臨済宗相国寺の境外塔頭であり、室町幕府8代将軍足利義政が金閣を模して造営した東山殿が寺に改められたようです。しかし、義政は銀閣(観音殿)の完成を見ることがなかったようですね。写真は展望台から望む銀閣です。
銀閣の脇の向月台
花頭窓越しに見る銀沙灘
銀閣寺には日本様式の住宅建築の要素を強く残した義政の持仏堂である国宝東求堂(とうぐどう)がありました。東求堂の内部は、襖などで4室に仕切られ、仏間や書斎などがあります。仏間は、床を板敷とし、天井は折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)とした寝殿造りの部屋であり、書斎は、違い棚、付書院(机)が配置され、畳を敷き詰めた4畳半「座敷」の部屋でした。写真は東求堂の外観です。
東求堂の書斎は「同仁斎」と呼ばれ、4畳半座敷、棚と付書院は現存最古のものであり、現代日本様式建築の床の間や座敷の源流となり、また4畳半茶室の始まりともなっています。その後、書院造は日常的な住まいから接客広間、そして二条城の二の丸御殿に代表される対面所として変遷していったようです。将軍職を譲り、文化に傾倒した義政は4畳半の同仁斎を日常的な住まいとして使用し、書画や茶の湯を楽しんでいたのでしょうね。写真(撮影禁止のため特別拝観の看板を撮影)の上部は同仁斎の付書院と書院窓です。付書院の上には、硯や筆などが置かれ、明り採りの書院窓を開けると掛け軸のように北庭が映りました。
東求堂では、板敷の平安寝殿造りの仏間と、座敷で構成された室町書院造の書斎を同時に見ることができ、和風住宅様式の流れを感じることができました。写真は義政筆を複製して江戸時代に造られた東求堂の扁額です。
また、義政は東山殿の造営にあたって夢窓国師が作庭した西芳寺(苔寺)に倣って庭園を構成し、その庭園は池泉回遊式庭園の発祥ともいわれているそうです。写真は庭園の錦鏡池に架かる石橋と東求堂です。
後継者問題から応仁の乱の一因をつくり、戦火の京都市中から逃げてきた(?)義政はここ東山殿で隠棲生活を送っていたのですね。
(追)
銀閣寺から法然院、安楽寺、吉田神社へ経て京都大学吉田キャンパスへ
湯川秀樹など6人のノーベル賞受賞者を輩出している京都大学の百周年時計台記念館
京都大学構内にノーベル賞受賞記念の石碑がありました。
京都大学の近くの出町柳の満月で阿闍梨餅を楽しみました。
銀閣寺の散歩を終わります。

京都散歩(39) 新島旧邸 -平和の使徒、新島襄-

京都御苑の近くにある新島旧邸は、同志社を設立した新島襄が35歳から没する46歳までの11年間を過ごした邸宅であり、同志社英学校(後の同志社大学)の開校地とされているようです。写真は新島旧邸の入り口です。
新島旧邸は、外観は洋館ですが、内部は和を基調として洋を取り入れた構成となっており、和風の茶室も備える中、洋風の応接室や書斎などがありました。写真は新島旧邸です。
ここで、群馬にも縁のある新島襄の生涯を振り返ってみたいと思います。
新島襄は、1843年に江戸神田の上州安中藩江戸屋敷に生まれたそうです。写真は神田の学士会館脇にある「新島襄先生誕生の地」の石碑です。
襄は、ある日、アメリカ人宣教師が訳した聖書に出会い、アメリカへ渡航することを画策したようです。そして、襄は、ロシア人司祭のニコライの協力を得ながら箱館港から出港し、1865年(22歳)にアメリカへの渡航に成功します。写真は函館の新島襄像です。
襄は、アメリカ滞在中に学位を取得するとともに宣教師となり、1875年(32歳)に帰国したそうです。帰国した襄は、伝道を行うため父母がいる上州安中に向かい、三週間の滞在中にキリスト教の講義を行ったそうです。写真は襄が三週間滞在した安中の新島襄旧宅(?)です。
襄の講義を受けた人の中から味噌醤油醸造業者(現在の有田屋)の湯浅治郎らが中心となって安中教会を設立し、その安中教会は群馬において伝道の拠点となったそうです。そして、前橋教会、前橋英和女学校(現在の共愛学園)等が設立されたようです。写真は安中教会です。
襄は、1875年に現在の新島旧邸の地に同志社英学校(後の同志社大学)を開校し、キリスト教人格主義教育を通して、キリスト教の伝道者を育成するとともに、近代科学を教授し、デモクラシーを体得した人間を育成したようです。写真は同志社大学今出川キャンパスです。
このように、平和の使徒(つかい)、新島襄は、キリスト教精神に基づく教育に専念していたのですね。
(追)
また、新島旧邸の近くには紫式部ゆかりの蘆山寺がありました。

紫式部はここ蘆山寺で源氏物語を執筆したのでしょうか。
蘆山寺の庭園
この後、岡崎の六盛(京料理)でスフレを楽しみ、京都国立博物館へ
国宝展では長谷川等伯の松林図屏風や油滴天目茶碗など沢山の国宝を鑑賞しました。
新島旧邸の散歩を終わります。

京都散歩(38) 京都御所、大宮御所、仙洞御所

京都御所は、天皇が住む内裏であり、現在の京都御所は南北朝が合一した1392年から1869年(明治2年)まで内裏として使用されたそうです。写真は広大な京都御所の南面正門である建礼門です。
建礼門の先には、承明門、紫宸殿が並んでいます。写真は承明門と紫宸殿です。
紫宸殿は、京都御所において最も格式の高い正殿であり、即位の礼など重要な儀式が行われる建物です。明治天皇、大正天皇、昭和天皇の即位の礼はこの紫宸殿で執り行われましたが、今上天皇の即位の礼は警備上の問題等から東京で執り行われたようです。2019年の即位の礼はこの紫宸殿で行われるのでしょうか。写真は紫宸殿と左近の桜です。
紫宸殿は、室内を間仕切りを設けない1室とし、柱は円柱、床は畳を敷かない拭板敷(ぬぐいいたじき)、天井板を張らない化粧屋根裏とした典型的な寝殿造りのようです。写真は紫宸殿の扁額です。
紫宸殿の室内には高御座(たかみくら)があります。高御座は、天皇が即位の際に着座し、その即位が象徴的に示される天皇の正式な御座所である玉座です。今上天皇の即位の礼の際にはこの高御座が東京まで運ばれたそうですね。写真は高御座です。
紫宸殿の北東には天皇が日常の住まいとして使用された清涼殿があります。この清涼殿では、政事や神事も行われたそうですね。写真は大臣の人形が置かれた清涼殿です。
御所内では雅楽が行われていました。
京都御所から大宮御所、仙洞御所へ
大宮御所は後水尾天皇が東福門院(徳川和子)のために造営した女院御所を始まりとし、現存する大宮御所は1867年に建てられたようです。現在は天皇・皇后・皇太子・皇太子妃が京都に行幸した際の宿泊に使用されています。写真は雁行形に配置された屋根が特徴の大宮御所の御車寄せです。
大宮御所の南には仙洞御所があります。
仙洞御所は皇位を退いた天皇(上皇・法皇)の御所です。現在の仙洞御所は後水尾天皇のために造営されたものでありますが、建物は焼失し、庭園のみが残っています。写真は仙洞御所の北池です。
仙洞御所の庭園は、池泉回遊式の庭園であり、初め小堀遠州により作庭されましたが、後に後水尾天皇の意向により大きく改造されたそうです。写真は藤棚が設けられた八つ橋と南池の州浜(すはま)です。
州浜は、池泉のきわに緩い勾配をつけて小さな玉石を敷き詰めたものであり、州浜の玉石は小田原で採石されたそうです。写真は南池中島の雪見灯篭
州浜は池を大きな海として表現し、浄土式庭園に多く見られる意匠です。これほど大きな州浜を有する南池庭園は、禅宗庭園には見られない壮大で優雅な庭園ですね。写真は南池と大きく湾曲した州浜です。
仙洞御所の庭園に茶室がありました。皇室の方々も侘びさびの世界を楽しむのでしょうか。写真は茶亭又新亭です。
京都御所に西には蛤御門があります。
久坂玄瑞はこの付近で戦ったのでしょうか。禁門の変の弾痕が生々しいですね。
京都御所、大宮御所、仙洞御所の散歩を終わります。