京都散歩(39) 新島旧邸 -平和の使徒、新島襄-

京都御苑の近くにある新島旧邸は、同志社を設立した新島襄が35歳から没する46歳までの11年間を過ごした邸宅であり、同志社英学校(後の同志社大学)の開校地とされているようです。写真は新島旧邸の入り口です。
新島旧邸は、外観は洋館ですが、内部は和を基調として洋を取り入れた構成となっており、和風の茶室も備える中、洋風の応接室や書斎などがありました。写真は新島旧邸です。
ここで、群馬にも縁のある新島襄の生涯を振り返ってみたいと思います。
新島襄は、1843年に江戸神田の上州安中藩江戸屋敷に生まれたそうです。写真は神田の学士会館脇にある「新島襄先生誕生の地」の石碑です。
襄は、ある日、アメリカ人宣教師が訳した聖書に出会い、アメリカへ渡航することを画策したようです。そして、襄は、ロシア人司祭のニコライの協力を得ながら箱館港から出港し、1865年(22歳)にアメリカへの渡航に成功します。写真は函館の新島襄像です。
襄は、アメリカ滞在中に学位を取得するとともに宣教師となり、1875年(32歳)に帰国したそうです。帰国した襄は、伝道を行うため父母がいる上州安中に向かい、三週間の滞在中にキリスト教の講義を行ったそうです。写真は襄が三週間滞在した安中の新島襄旧宅(?)です。
襄の講義を受けた人の中から味噌醤油醸造業者(現在の有田屋)の湯浅治郎らが中心となって安中教会を設立し、その安中教会は群馬において伝道の拠点となったそうです。そして、前橋教会、前橋英和女学校(現在の共愛学園)等が設立されたようです。写真は安中教会です。
襄は、1875年に現在の新島旧邸の地に同志社英学校(後の同志社大学)を開校し、キリスト教人格主義教育を通して、キリスト教の伝道者を育成するとともに、近代科学を教授し、デモクラシーを体得した人間を育成したようです。写真は同志社大学今出川キャンパスです。
このように、平和の使徒(つかい)、新島襄は、キリスト教精神に基づく教育に専念していたのですね。
(追)
また、新島旧邸の近くには紫式部ゆかりの蘆山寺がありました。

紫式部はここ蘆山寺で源氏物語を執筆したのでしょうか。
蘆山寺の庭園
この後、岡崎の六盛(京料理)でスフレを楽しみ、京都国立博物館へ
国宝展では長谷川等伯の松林図屏風や油滴天目茶碗など沢山の国宝を鑑賞しました。
新島旧邸の散歩を終わります。