京都散歩(32) 東福寺、光明院 -現代日本庭園-

東福寺は、臨済宗東福寺派の大本山であり、京都五山の四位の禅寺ですね。東福寺は紅葉時たくさんの人で賑わいますが、このときはまだ青もみじで人も少なくゆっくりできました。写真は青もみじに囲まれた通天橋です。
東福寺は鎌倉時代の公卿である藤原(九条)道家が大仏を安置する寺院を建立することを発願し、奈良の東大寺の「東」と興福寺の「福」をとって東福寺としたそうです。写真は室町幕府第四代将軍足利義持が再建した三門です。
三門の扁額は足利義持筆のようです。
東福寺の軒丸瓦
三門の西側には東司(とうす)があります。東司は厠であり、禅寺では用を足すときでも厳しい規則が決められ、用便も修行の一環だったそうです。
説明板には、「当時の排出物は貴重な堆肥肥料であり、京野菜には欠かせない存在となっていた。京都の公家、武家、庶民の台所を美味しい野菜で潤した。」とありました。写真は東司の内部です。当時は仕切りがあったようです。
東福寺の方丈の東西南北には、昭和の作庭家・重森三玲によって作庭された「八相の庭」と呼ばれる四庭があります。八相(はっそう)の庭は、「蓬莱(ほうらい)」、「方丈」、「えい州(じゅう)」、「こりょう」、「八海」、「五山」、「井田市松(せいでんいちまつ)」、「北斗七星」の八つを、釈迦の生涯の重要の出来事である八相成道(はっそうじょうどう)に因んで命名されたそうです。写真は南庭であり、手前から「えい州」、「蓬莱」、「こりょう」の石組みと「八海」の白砂です。

禅寺庭園の石組みは、中央に背高の主石を置き、左右に主石より低い添石を置いた三尊石組など石の縦置きを基調としたものが多いのですが、南庭の石組みは長石を横置きにし、禅寺庭園とは趣を異にしたものでした。写真の左の石組みが「えい州」、右が「蓬莱」です。
京都五山を表した築山の「五山」と、左の石が「方丈」の一部です。
西庭には、さつきの刈込と砂地とを石で方形に区切った「井田市松」があります。
北庭は、コケ(ウマスギゴケ)と敷石で作られた小市松です。
東庭には、円柱石で構成された「北斗七星」があります。この円柱石は東司で使われていたもののようです。
重森三玲が作庭した方丈庭園は、沢山の巨石を大胆に配した石組み、市松模様、北斗七星など禅寺庭園にあまりない意匠を取り入れ現代日本庭園としていますね。
ただ、この八相の庭が、どのように八相成道に結び付けられているのか、理解できなかったことが残念でした。
東福寺から塔頭の光明院へ、写真は光明院の門です。
光明院には、重森三玲が作庭した「波心の庭」があります。重森三玲らしく沢山の石を大胆に配した庭園ですね。
ここ光明院は、以前に、JR東海のポスター「どなたか、この美しさを論理的、科学的に説明していただけませんか」で観光客がたくさん訪れるようになったようです。今回は観光客は少なく貸し切り状態でした。
東福寺と光明院では、禅寺庭園とは少し異なる現代庭園を楽しむことができました。

(追)
光明院から外国人の人気No.1の伏見稲荷大社へ
千本鳥居は沢山の参拝客で賑わっていました。参拝客の5割以上は外国人観光客のようですね。
山頂の一の峰
山頂まで来ると参拝客も少なくなりました。
東福寺と光明院の散歩を終わります。

京都散歩(31) 泉涌寺、芬陀院

泉涌寺は、東山の南端である月輪山の麓にあり、皇室の菩提寺であることから御寺(みてら)と呼ばれているようです。後堀河天皇により皇室の菩提寺とされ、江戸時代においては後水尾天皇から孝明天皇に至る歴代天皇が葬られているそうです。写真は月輪陵(つきのわのみささぎ)です。
泉涌寺は、空海を開創者とする説もあるようですが、実質的な開基は鎌倉時代の俊芿(しょんじょう)という僧侶だったようです。写真は御寺泉涌寺の大門です。
大門を抜けると仏殿に向かって下り参道が続きます。寺院の参道は通常登りになっていますが、修行道場の泉涌寺は同じく修行道場である比叡山の根本中堂と同様に下り参道となっているようです。写真は下り参道と仏堂です。
俊芿は、宋にわたり、宋から多くの文物を持ち帰って泉涌寺の伽藍を建てたそうです。密教の中心堂宇は通常、「本堂」、「金堂」と呼びますが、泉涌寺では宋風の「仏殿」の呼称を用いているそうです。写真は仏殿です。
仏殿の近くには、今も湧き出る清泉があり、ここで清泉が湧き出たことから寺号を仙遊寺から泉涌寺に改めたそうです。写真は清泉を覆う泉涌水屋形です。
皇室との結び付きが深い泉涌寺には明治天皇が旧御所で使用していた御殿を移築した御座所があります。御座所は、現在も今上天皇をはじめとし皇室の方々が訪れた際に休憩所として使用されているそうです。写真は御座所です。
御座所の庭園からは月輪陵へ直接行くことができる門がありました。皇室の方々はこの門を通り月輪陵へ行くのでしょうね。写真は御座所庭園です。
御座所庭園は、写真では確認しにくいですが、雪見灯籠が落ち着きをもたせていますね。
泉涌寺から芬陀(ふんだ)院へ
芬陀院は、東福寺の塔頭であり、雪舟作の庭園を伝えることから「雪舟寺」とも呼ばれているようです。写真は分陀院の山門です。
山門から庫裏に続く石畳
南庭の「鶴亀の庭」は、水墨画家であり、禅僧である雪舟が作庭したものと伝わっています。写真は書院から見た鶴亀の庭の亀島(右の石組み)と鶴島(左の石組み)です。
鶴亀の庭は、永い歳月で荒廃してしまったため、昭和の作庭家重森三玲により一石の補足もなく再現されたようです。その鶴亀の庭を見ながら抹茶で一服
茶室へ続く露地のつくばいと灯篭
茶室図南亭から望む東庭
泉涌寺、芬陀院の散歩を終わります。

京都散歩(30) 加茂社 -上賀茂神社、下鴨神社-

加茂川に沿って半木(なからぎ)の道を上流に向かって歩き、上賀茂神社へ
鴨川が正式名称ですが、下鴨神社近くの高野川との合流点より上流は加茂川(または賀茂川)と呼ばれているようですね。
 加茂川の鷺
上賀茂神社(賀茂別雷神社:かもわけいかづちじんじゃ)は、都が京に遷される以前からこの地に住む賀茂氏の氏神を祀る神社であり、下鴨神社とともに加茂社と呼ばれるようです。写真は上賀茂神社の一の鳥居です。
一の鳥居から二の鳥居に続く参道では、毎年五月五日に葵祭の前儀である賀茂競馬(かもくらべうま)行われます。正岡子規は「くらべ馬おくれし一騎あはれなり」と詠んでいるようですね。
二の鳥居の前には神馬(しんめ)舎がありましたが、休日なので神馬くんもお休みのようです。
参道を進むと二の鳥居があります。二の鳥居は参道に対して直角でなく(一の鳥居と平行でない)、旧京都御所の方向に向けられているようです。珍しいですね。
二の鳥居の奥の細殿(拝殿)の前に立砂があります。この立砂は、上賀茂神社の祭神である賀茂別雷神が降臨したとされる神山(こうやま)を模して造られているそうです。
上賀茂神社の本殿の北にある神山
右側の立砂には二葉の松
左側の立砂には三葉の松
立砂の松葉は、神が降臨する際の目印としているそうです。
雅な境内
境内を流れる明神川の上には橋殿(舞殿)があります。清らかな水の上で舞を奉納するのですね。
明神川から水を引いた渉渓園では、賀茂曲水の宴が行われるようです。この小川の流れは速く、盃が通り過ぎるまでに歌を詠むのは難しいでしょうね。
参拝を終えて神馬舎の前を通ると、神馬くんは休日出勤(?)してました。可愛らしい神馬くんですね。お勤めご苦労様です。
上賀茂神社から社家町へ
社家町は上賀茂神社の神官が住む社家が明神川に沿って並んでいます。各社家は明神川の水を引き入れ、身を清める禊の水、生活用水、庭園の池の水や遣り水などに使っていたようです。写真は社家の街並みと明神川です。
社家町から大田神社へ
大田神社は上賀茂神社の境外摂社であり、大田の沢に野生のカキツバタが群生しています。大田の沢のカキツバタは古歌に詠われていることから平安時代から名勝になっていたようです。尾形光琳の「燕子花図」のモチーフになったともいわれているようですね。
また、この付近は書や陶芸、料理など幅広い分野で業績を残した北大路魯山人が生まれた地でもあるようです。
大田神社から北山の古田織部美術館へ
古田織部美術館では古田織部と本阿弥光悦の茶器などで少し茶の湯の勉強をしました。
北山から下鴨神社へ
下鴨神社(賀茂御祖神社:かもみおやじんじゃ)は、上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母・玉依姫と玉依姫の父を祀っているそうです。写真は境内の糺(ただす)の森です。
糺の森の参道を進むと南口鳥居があります。
鳥居の奥の楼門
また、境内には上賀茂神社と同じように橋殿があります。
境内の奥には井上社(御手洗(みたらし)社)があります。井戸の井筒の上に祀られていることから井上社といわれ、社の井戸から湧き出た水が御手洗池の水源となっています。この御手洗池の底から湧き上がる水泡をかたどったのが「みたらし団子」の発祥と伝わっているようです。写真は井上社と御手洗池です。
下鴨神社の近くに加茂みたらし茶屋のみたらし団子で一服
みたらし団子は、1本の竹串に5個の団子を差してあります。これは後醍醐天皇が行幸の際に下鴨神社の御手洗池で水をすくおうとしたところ、1つ大きな泡が出て、続いて4つの泡が出てきたことによるとする説があるようです。写真は1つ目と2つ目の間隔が広くなっているみたらし団子です。
下鴨神社の摂社に玉依姫命を祀った河合神社があります。
河合神社には「方丈記」を書いた鴨長明の方丈庵があり、鴨長明は下鴨神社の神職の次男として生まれ、神職の道についたようです。晩年は組み立て式の方丈に住み、各地を転々としたらしいですね。写真は長明の方丈庵です。
高野川と加茂川が合流する出町には飛び石があります。
亀の飛び石もありました。
そして、この付近(現在の出町柳商店街)は若狭の小浜とを結ぶ鯖街道の終点だったようです。往時は水揚げされた生サバが小浜で塩でしめられ、この鯖街道を1日かけて陸送され京都に到着する頃にちょうど良い塩加減になったようで、今でも出町柳には鯖寿司の名店が多いようですね。写真は鯖街道口の石碑と出町橋です。
出町柳の「ふたば」は豆大福を求めて長蛇の列ができていました。
加茂社の散歩を終わります。