京都散歩(44) 修学院離宮 -後水尾上皇-

修学院離宮は、1655年に後水尾上皇の指示により造営された離宮であり、桂離宮や仙洞御所と並び朝廷文化の美意識の到達点を示すものであるといわれているそうです。写真は修学院離宮を代表する景観となっている浴龍池(よくりゅうち)です。
後水尾上皇は、1655年東福門院とともにこの近くに住む円照寺尼宮(上皇の第一皇女)の草庵に御幸した際、そのすぐれた風光に魅せられ、大規模な山荘造営に着手し、この修学院離宮を完成させたようです。その修学院離宮は、比叡山の麓に造られ、下離宮、中離宮、上離宮の3つの離宮(御茶屋)で構成されています。写真は下離宮へ続く修学院離宮の入り口です。
後水尾天皇は、江戸時代の初期の1611年に14歳で即位しましたが、「禁中並公家諸法度」等により幕府から圧迫を受けたようですね。幕府と対立した後水尾天皇は、1629年に譲位し、院政を行うとともに、詩歌、生け花、庭園等の朝廷文化を大切にし、修学院離宮を造営したようです。写真は下離宮の寿月観(じゅげつかん)であり、「寿月観」の扁額は後水尾上皇の宸筆です。
現在の寿月観は、創建当時のものでなく、1824年に再建されたそうです。写真は寿月観の内部です。
寿月観の飾り棚です。上の戸袋に鶴の絵が描かれていました。
下離宮から松並木道を経て中離宮へ
中離宮は後水尾上皇の皇女のために造営された御所が前身であり、林丘寺という門跡寺院の境内の約半分が離宮となったものであるようです。その林丘寺は現在も存続し、離宮内を通らなければ出入りすることができず、一般の人は入れないそうです。写真は中離宮の楽只軒(らくしけん)です。
また、中離宮には、東福門院(徳川和子)の女院御所が移築された客殿があり、その客殿には桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚と並び天下三棚の一つとされる霞棚がありました。写真は五段の欅板で構成された霞棚です。
中離宮から上離宮へ
各離宮は松並木の道で繋がれ、実際に契約農家によって耕作されている水田も風景の一部として取り入れられていました。写真は離宮間の水田風景です。
上離宮に近づくと大刈込が見えてきます。ここには、上離宮の人工池である浴龍池を作るために谷川をせき止める石垣があり、その石垣を隠すため常緑樹を大きく刈り込んだ大刈込で覆っていました。写真は大刈込です。
上離宮の入り口となる御成門です。
上離宮の御成門から刈込みで視界が遮られた石段を登り隣雲亭に上ると、突然視界が開け、眼下に広がる浴龍池と遠方に借景となる洛北の山々が見事な景観を作り出します。これは傾斜地を利用した後水尾上皇の演出だったのかもしれませんね。写真は丘の上に建つ隣雲亭から見た浴龍池です。
浴龍池に架かる中国風の千歳橋
浴龍池に架かる曲線が美しい土橋
浴龍池と隣雲亭
自然の中に溶け込み、美しく贅沢を極めた修学院離宮は、幕府により御所の鬼門に配置されたとの説もありますが、権威を失い幕府に監視される日々を送ってきた後水尾上皇と東福門院の最後の楽園だったのでしょうね。
修学院離宮の散歩を終わります。