京都散歩(10)-相国寺、上御霊神社-

聖護院から相国寺へ
相国寺は、室町幕府3代将軍・足利義満の発願、夢窓疎石を開山として建てられた禅寺です。意外にも観光名所の金閣寺や銀閣寺は相国寺の山外塔頭なのですね。写真は相国寺の総門です。
義満は、花の御所(足利将軍家の邸宅)の隣であって京都御所の北にこの相国寺を建立しました。創建当時は、東寺の五重塔の約2倍の高さの七重大塔が建てられていたようです。また、大きな境内には豊臣秀頼により再建された法堂があります。その法堂には、狩野光信により描かれた龍の天井画がありました。写真は法堂です。
法堂の北側には方丈があります。写真は火灯窓から見る方丈と杉戸絵です。
方丈の裏には、深山幽谷を現した裏方丈庭園があります。庭園ともみじがきれいでした。写真は裏方丈庭園です。
庭園の中央部に掘り込みが谷のように作られています。
開山・夢窓国師の木像を安置した開山堂には円山応挙筆の杉戸絵などがありました。また、開山堂の前庭はかつて水が流れていたといわれ「龍淵水の庭」と呼ばれるそうです。写真は開山堂の前庭です。写真ではわかりにくいですが、左側に水が流れていた跡があり、かつて今出川が流れていたようです。
相国寺には、相国寺をはじめ金閣寺や銀閣寺などが所有する文化財を収蔵・展示する承天閣(じょうてんかく)美術館があります。承天閣美術館では、相国寺にゆかりのある伊藤若冲が描いた鹿苑寺(金閣寺)大書院の障壁画50面、動植綵絵(どうしょくさいえ)(複製)が展示されていました。東京都美術館の若冲展(2016)でも展示された「動植綵絵」は、明和7年(1770)に若冲が相国寺へ永代供養として奉納され、明治時代まで毎年6月に相国寺方丈で行われる法要で実際に掛けられていたようです。写真は承天閣美術館です。
相国寺から上御霊神社へ
上御霊神社は、室町時代の文正2年(1467年)1月18日、この付近の御霊の森で応仁の乱の前哨戦が行われ、応仁の乱発祥の地とされているようです。写真は上御霊神社です。
この応仁の乱は相国寺をはじめとして京都の寺社の殆どを焼きつくしてしまい、京の都を疲弊させてしまったのですね。写真は上御霊神社の応仁の乱勃発地の碑です。
これで相国寺、上御霊神社の散歩を終わります。

京都散歩(9)-聖護院-

聖護院へ
聖護院(門跡)は、修験道の総本山であり、白河上皇の熊野詣で案内役を務めた増誉大僧正に、聖護院を与えられたことに始まるそうです。聖護院は「聖体護持(天皇をお守りすること)」から2字をとったことにその名が由来し、代々、皇族か摂関家が門主(住職)を務め、孝明天皇などの仮皇居ともなり皇室と縁の深い門跡寺院のようです。写真は山門です。
修験道は、山岳崇拝の精神を基とし、厳しい山々で修行し、困苦を忍び、心身を修練し、悟りを開いて仏果を得る、という出家・在家を問わない菩薩道、即身即仏を実修する日本古来の宗教のようです。聖護院は、山中で修行をする修験道の行者であり、山に伏したことから山伏といわれる「山伏の総本山」のようです。
聖護院の宸殿では、狩野山楽の子である狩野永納と、狩野探幽の養子である狩野益信による金碧障壁画130面が公開されていました。宸殿とは天皇ゆかりの建物であり、高貴な方をもてなす建物であるそうです。建物を意味する「うかんむり」の中に天皇の象徴である「辰(龍)」がいることで、高貴な方の建物を意味しているそうです。写真は宸殿です。
宸殿の北側には書院があります。書院は、後水尾天皇が建てたものであり、御所から移築されたと伝わるようです。写真は書院と庭園です。
書院の前庭にはうさぎが置かれていました。これは住職の遊び心のようです。
聖護院から熊野神社へ
熊野神社は、聖護院の守護神とされ、熊野信仰が盛んだった平安末期、度々熊野詣を行った後白河法皇に崇敬されたようです。
これで聖護院の散歩を終わります。

京都散歩(8)-大徳寺(興臨院、瑞峰院、黄梅院)-

大徳寺塔頭の興臨院へ
興臨院は前田利家により改修され、それ以来加賀藩前田家の菩提寺となっています。写真は興臨院の唐門へ続く中庭と庫裏です。
唐門を抜けると方丈庭園が広がります。方丈庭園は白砂に大きな石と松をあしらって、理想的な蓬萊(古代中国で仙人が住むという)世界を表しているようです。
唐門の火灯窓(かとうまど)から見る方丈前庭
方丈の北庭は色づいたもみじがきれいでした。
興臨院から瑞峰院へ
瑞峰院は戦国大名大友宗麟により自らの菩提寺として創建された大徳寺の塔頭です。
方丈前の独坐庭は、巨石で表した蓬萊山からのびる半島と小島に打ち寄せる荒波を砂紋で描いているそうです。写真はその独坐庭です。
方丈裏の閑眠庭は、大友宗麟がキリシタン大名だったことから、7個の石組みで十字架を形作っているようです。写真は閑眠庭ですが十字架はよく分かりませんでした。
瑞峰院から黄梅院へ
黄梅院は、本能寺の変により信長が急逝し、その葬儀が羽柴秀吉により大徳寺で盛大に行われた際、秀吉により信長の塔所として黄梅庵(現在の黄梅院)が改築されたそうです。その後、小早川隆景等の帰依を受け、堂内が整備されたようです。
黄梅院には織田家の墓所の他、小早川隆景、蒲生氏郷の墓所があるそうです。
写真は小早川隆景の寄進により建立された庫裏です。
境内には千利休が作庭した直中庭(じきちゅうてい)や、破頭庭(はとうてい)、作仏庭(さぶつてい)などがありましたが、写真撮影できなかったことが残念でした。
これで大徳寺(興臨院、瑞峰院、黄梅院)の散歩を終わります。

京都散歩(7)-今宮神社、建勲神社-

今宮神社へ
今宮神社の参道には、あぶり餅を提供する歴史ある2軒のお店が向かい合っています。あぶり餅は親指大にちぎった餅にきな粉をまぶし、竹串に刺したものを備長炭であぶって、白味噌のたれをかけたもので、店先で手際よく焼かれていました。
写真は今宮神社の東門です。
今宮神社は、5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院の庇護を受けていたようです。桂昌院はこの付近の西陣で生まれたため、特に今宮社に対する思いが強かったようです。写真は広い今宮神社の境内です。
今宮神社は、別名「玉の輿」神社ともいわれているそうです。この付近の西陣の八百屋に生まれた「お玉」が春日局に認められて徳川3代将軍家光の側室となり、5代将軍綱吉の生母・桂昌院として晩年には従一位となったそうです。この桂昌院のことが「玉の輿」ということわざの由来になったとの説があるそうです。写真は桂昌院のレリーフです。
舟岡山の建勲神社へ
建勲神社は、織田信長を祭神とした神社です。豊臣秀吉が舟岡山を信長の廟所として定め、後に「日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一をめざして日本を一つにまとめた信長のおかげ」として明治天皇の御下命によりここ舟岡山に建勲神社が創建されたそうです。
舟岡山は、平安京がおかれた際、北の基準となり、真南が大極殿と朱雀大路(現在の千本通り)となったようです。また、舟岡山は、応仁の乱の際、西軍の陣がおかれ、それ以来この付近は西陣と呼ばれるようになったそうです。
応仁の乱は、京都を戦場としたため京都の寺社は多くの戦火を受けたようです。千本釈迦堂で知られる大報恩寺には、その応仁の乱でも戦火を逃れて今も創建時の姿を残している本堂があります。
写真は戦火を逃れた千本釈迦堂の本堂です。境内では大根だきの準備が進められていました。
これで今宮神社、建勲神社の散歩を終わります。

京都散歩(6)-鷹峯(源光庵、光悦寺)-

まず、鷹峯(たかがみね)の源光庵へ
鷹峯は、江戸時代初期、徳川家康からこの地を拝領した本阿弥光悦が移り住んで京都の芸術・文化の拠点、いわゆる光悦村となった地ですね。鷹峯の源光庵は、2014年にJR東海の「そうだ京都へ行こう」のキャンペーンで使用されて一躍有名になったようです。
本堂には、迷いの窓と悟りの窓があります。右の四角い窓が迷いの窓であり、左の丸い窓が悟りの窓です。迷いの窓の四角形は「人間の生涯」を4つの角で象徴し、そして悟りの窓の円は「禅と円通」の心を表し「大宇宙」を表現しているそうです。迷いとは、「生」「老」「病」「死」の「釈迦の四苦」のことであり、円通とは、仏語で「智慧によって悟られた絶対の真理は、あまねくゆきわたり、その作用は自在であること」のようですが、難しいですね。
本堂裏の枯山水の庭園がきれいです。
本堂の天井は伏見城の遺構であり、関ヶ原の戦いの前哨戦で三成軍と戦った鳥居元忠が討死した床を用いた血天井です。
源光庵から光悦寺へ
光悦寺は本阿弥光悦が住んでいた屋敷が寺になったようです。光悦は刀剣の鑑定などを行う本阿弥家に生まれ、書、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などに携わった芸術家だったようですね。また、光悦は俵屋宗達とともに琳派の創始者であり、後の芸術家達に大きな影響を与えたようです。 宗達の下絵、光悦の書の絵巻などが 有名ですね。
光悦寺には、光悦が晩年を過ごしたといわれる大虚庵の路地と光悦寺の境内を仕切る光悦垣があります。この光悦垣は菱に組んだ竹の天端を割竹で巻いた光悦寺独特の垣のようです。写真はなだらかな曲線が美しい光悦垣です。
また、境内には沢山の茶室が点在しています。写真は本阿弥庵です。
光悦は、この鷹峯の地に、本阿弥一族や町衆、職人などを率いて移住しました。光悦は後水尾天皇の庇護の下、朝廷ともつながりが深かったため、家康は光悦を都から遠ざけようとして鷹峯の地を光悦に与えたともいわれているようです。写真は光悦寺から望む鷹峯です。
しかし、光悦は紙屋川の渓谷を隔て鷹峰の山々に囲まれたこの地を気に入り、移住後はここ鷹峯で過ごしたようです。また、光悦は俵屋宗達と親好があり、厳島神社の寺宝『平家納経』の修理に宗達を仲介し、宗達はその功績が認められ絵師としての道を歩むようになったようです。光悦がいなければ風神雷神図屏風は描かれなかったかもしれませんね。写真は光悦の墓所です。
ここ鷹峯は今も芸術の地ですね。写真は竹筆です。
鷹峯の南側には、豊臣秀吉により洛中の外側を張り巡らすように築かれた御土居があります。天下統一を果たした秀吉は長い戦乱で荒れ果てた京都を復興し、近代化を図りました。まず、聚楽第を設け、それを中心に街区を改め、寺院を寺町に集めました。そして、周りに濠と土塁を巡らせ洛中と洛外に分けたようです。この御土居はブラタモリでも紹介されましたね。
これで鷹峯の散歩を終わります。

10.函館散歩-榎本武揚の足跡を辿って-

異国情緒が残る函館は、港を見下ろす八幡坂や金森赤レンガ倉庫、そしてこの地で命を落とした土方歳三が有名ですね。今回は土方歳三とともに戊辰戦争の最後の戦いである函館戦争を旧幕府軍として戦い、戦後明治新政府の要職を歴任して近代日本の基礎を築いた榎本武揚の足跡を辿って函館を散歩しました。
写真は「行ってみたい坂」として有名な八幡坂です。江戸時代この坂の上に箱館八幡宮が鎮座していたようです。
函館ベイエリアには観光地化された金森赤レンガ倉庫があります。函館は明治後期から昭和にかけて海運業で繁栄していたようです。
人気のある新選組の土方歳三
函館は古くから天然の良港として栄え、江戸時代になるとロシア人の来航を契機に、幕府は北辺警備のため蝦夷奉行、後の箱館奉行を設置します。写真は江戸時代に箱館奉行が置かれた地である元町公園です。箱館(函館)の名は、室町時代に津軽の豪商が、この地(現在の元町公園)に建てた館の形が箱に似ていたことに由来するそうです。
元町公園の下にある基坂
函館は、江戸時代後期、幕府が開港したため外国人が居留するようになりました。外国人は港が望める小高い丘に住み、住宅や教会などを建てたようです。写真は函館ハリストス正教会であり、幕末期にロシア領事館内に建てられた聖堂が後に正教会になったそうです。その後、ニコライにより正教会の拠点が神田に東京復活大聖堂教会(ニコライ堂)として移されたようです。
函館ハリストス正教会と函館港
カレーやロシア料理が美味しい五島軒、初代料理長は函館ハリストス正教会でロシア料理を学んだようです。
幕末期、幕府は、箱館を開港すると防衛上の観点から港に近かった箱館奉行所を内陸へ移転させるため五稜郭を築造しました。しかし、五稜郭は完成からわずか2年で幕府が崩壊したため、新政府により箱館府が設置されました。幕府崩壊後、榎本武揚は土方歳三とともに旧幕府軍として開陽丸で蝦夷地に上陸し、ここ五稜郭を占領します。
榎本武揚は、幕臣として開陽丸の引渡しを兼ねてオランダに留学し、各種技術や国際法を学んで開陽丸に乗って帰国すると、幕府軍の軍艦頭(開陽丸艦長)になります。榎本は、鳥羽伏見の戦いで敗戦し、江戸城が無血開城すると、旧幕臣の生活を考え五稜郭の箱館府を占領していわゆる蝦夷共和国を設立しました。写真は五稜郭近くの梁川公園に設置された榎本武揚像です。
しかし、後に内閣総理大臣となる黒田清隆が率いる新政府軍は、榎本率いる旧幕府軍を攻撃し、函館戦争を戦います。このとき、土方歳三は一本木関門で銃弾に撃たれ命を落としてしまいます。写真は馬に乗った土方歳三のジオラマです。
土方が命を落としたとされる一本木関門
函館戦争を戦う黒田は榎本に降伏を勧告します。しかし、榎本は黒田の降伏勧告を拒否します。このとき、榎本は新政府軍に対する勝算がなかったため、オランダ留学時に持ち帰った「海律全書」(海の国際法と外交)を「今後の日本に必要なもの」として黒田に渡しました。黒田は、その礼に酒と肴を榎本に贈ったそうです。榎本は降伏することを決意し、亀田八幡宮で黒田と会見し、降伏の誓いを交わしたそうです。写真は榎本と黒田が亀田八幡宮で会見している様子を示すジオラマです。
五稜郭の近くにある亀田八幡宮
降伏した榎本は、函館を出発し、東京へ護送され、牢獄に収監されたそうです。一方、新政府の黒田清隆は国際法を詳しく知る榎本武揚の助命を懇願し、やがて榎本は放免となります。そして、旧幕府軍だった榎本は黒田の誘いにより新政府で北海道開拓使、駐露特命全権公使、さらに黒田内閣では逓信大臣等の要職を歴任し、近代日本の礎を築いていきます。
その一方、榎本らは立待岬近くの谷地頭にひっそりとした地に碧血(へきけつ)碑を建立します。
碧血碑は土方歳三など函館戦争における戦死者を慰霊する碑です。碧血碑の説明板には、「函館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地での旧幕府脱走軍戦死者の霊を祀っているのが、この碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8(1875)年、大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は、戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている。碑の台座裏に、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは、旧幕府脱走軍の霊を公然と弔うには支障があったことが推測される。なお、碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」という、中国の故事によるものである。」とありました。
元町から谷地頭に遷座した函館八幡宮
紅葉が鮮やかでした。
函館山へ
榎本武揚と黒田清隆が戦った函館の町
晩年、榎本武揚は、盟友の黒田清隆が死去した際、葬儀委員長を務めたそうです。そして、その8年後に榎本も亡くなりました。
この函館の地で対峙した旧幕府軍の榎本武揚と新政府軍の黒田清隆は近代国家日本を築く想いは通じていたのでしょうね。
榎本武揚の足跡を辿った函館散歩を終わります。
(追)
東京都文京区本駒込の吉祥寺にある榎本武揚の墓
榎本武揚や小栗上野介は、徳川慶喜に新政府軍に対して徹底抗戦することを進言しますが、慶喜はそれを受け入れず恭順の姿勢を貫きました。小栗上野介は、その後現在の高崎市倉渕町権田の東善寺に引き上げましたが、新政府軍により斬首されてしまいました。写真は高崎市の東善寺です。
東善寺にある小栗上野介の墓