今宮神社の参道には、あぶり餅を提供する歴史ある2軒のお店が向かい合っています。あぶり餅は親指大にちぎった餅にきな粉をまぶし、竹串に刺したものを備長炭であぶって、白味噌のたれをかけたもので、店先で手際よく焼かれていました。
写真は今宮神社の東門です。
今宮神社は、5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院の庇護を受けていたようです。桂昌院はこの付近の西陣で生まれたため、特に今宮社に対する思いが強かったようです。写真は広い今宮神社の境内です。
今宮神社は、別名「玉の輿」神社ともいわれているそうです。この付近の西陣の八百屋に生まれた「お玉」が春日局に認められて徳川3代将軍家光の側室となり、5代将軍綱吉の生母・桂昌院として晩年には従一位となったそうです。この桂昌院のことが「玉の輿」ということわざの由来になったとの説があるそうです。写真は桂昌院のレリーフです。
舟岡山の建勲神社へ
建勲神社は、織田信長を祭神とした神社です。豊臣秀吉が舟岡山を信長の廟所として定め、後に「日本が外国に侵略されなかったのは、天下統一をめざして日本を一つにまとめた信長のおかげ」として明治天皇の御下命によりここ舟岡山に建勲神社が創建されたそうです。
舟岡山は、平安京がおかれた際、北の基準となり、真南が大極殿と朱雀大路(現在の千本通り)となったようです。また、舟岡山は、応仁の乱の際、西軍の陣がおかれ、それ以来この付近は西陣と呼ばれるようになったそうです。
応仁の乱は、京都を戦場としたため京都の寺社は多くの戦火を受けたようです。千本釈迦堂で知られる大報恩寺には、その応仁の乱でも戦火を逃れて今も創建時の姿を残している本堂があります。
写真は戦火を逃れた千本釈迦堂の本堂です。境内では大根だきの準備が進められていました。
これで今宮神社、建勲神社の散歩を終わります。