勅使門の奥に山門があります。この山門は、千利休が上層を完成させて金毛閣と名付けられ、その利休の恩に報いるため寺により上層に利休の木造が安置されました。このことは、山門を通るものは利休の足下をくぐることになるため、秀吉の怒りをかって利休の切腹の一因になったともいわれてますね。写真は金毛閣です。
金毛閣から本坊へ続く参道は手入れされた松が立ち並びます。
写真は法堂です。
本坊から聚光院へ
聚光院は、戦国時代の武将である三好家の菩提寺であり、千利休の墓所もあります。この聚光院では、狩野永徳の障壁画、利休が作庭した庭園、千家の茶室などが2017年3月まで期間限定で公開されています。狩野永徳は誰もが知っている名前ですが、現存する永徳の真筆は三点と意外に少なく、ここ聚光院の障壁画がその一つです。これは、永徳が信長や秀吉のお抱え絵師だったため、安土城、大阪城、聚楽第などが焼失、取り壊し等されたためといわれています。写真は聚光院の門です。
聚光院の方丈では、狩野松栄、永徳父子による国宝「花鳥図」、「琴棋書画図」などが9年ぶりに京都博物館から里帰りし、本物(国宝)が公開されています。写真は聚光院の看板であり、「花鳥図」の春を示す梅が描かれたものです。この「花鳥図」の梅は、大地を力強く鷲掴みにする根、重力に抗って上に横に伸びる枝が大画方式で描かれ、見るものを圧倒するものでした。
方丈の左右正面の3面の襖に、永徳の春、秋、冬の花鳥図が描かれ、正面の襖を開けると父松栄が描いた夏の花鳥図が現れます。冬に降り積もった雪が春に溶けて小川となって流れ、鯉が泳ぐ夏の池に注ぎ、方丈の室内の池から室外の千利休が作庭した百積の庭に流れることを表す構成になっています。これは、狩野父子の障壁画と利休の庭園が渾然一体となったものであり、ここ聚光院の方丈でしか味わえないものですね。写真はJR東海の聚光院のポスターです。
聚光院から高桐院へ
高桐院は、戦国武将であって利休に師事した茶人でもあった細川忠興(三斎)と夫人ガラシャの墓所がある大徳寺の塔頭です。写真は高桐院の門に続く参道です。手すりの竹と苔が美しいですね。