本法寺は、本阿弥光悦で知られる本阿弥家の菩提寺であり、また十世日通上人と交友があった桃山、江戸時代の絵師長谷川等伯ゆかりのお寺です。写真は長谷川等伯が寄進したとされる山門です。
長谷川等伯は、33歳のころ能登七尾から長谷川家菩提寺の本山である本法寺に移り、京で絵師としての道を歩みます。しかし、当時の京は信長や秀吉の厚い信頼を受けていた狩野派絵師集団が全盛期を迎えており、その牙城を崩して大きな仕事を得ることは困難だったようです。そのような状況下で等伯は日通上人を通じ利休の支援を受けるようになり、大徳寺金毛閣の天井画等を描きました。これが認められ等伯は絵師としての地位を確立していきます。写真は七尾を発つときの等伯の姿の像と本堂です。
本法寺の宝物展示館には京都三大涅槃図の一つに数えられる等伯が描いた高さ10m、横6mの大きな仏涅槃図の複製が展示されていました。写真は宝物展示館前の唐門と庭園です。
また、本法寺は、聚楽第の建設に伴い秀吉の命によりこの地への移転を強いられた際、伽藍の整備に尽力したのが本阿弥光悦と父光二だったようです。本阿弥光悦は、俵屋宗達とともに琳派を創始したといわれ、数多くの書・絵画・陶芸等の作品を残していますね。写真は光悦が作庭した巴の庭です。
後世の日本文化に大きな影響を与えた本阿弥光悦、狩野派絵師集団に果敢に挑んだ長谷川等伯ゆかりの本法寺でした。今後の京都散歩では光悦、等伯の足跡もたどってみたいと思います。
(追)
同志社大学今出川キャンパスを少し散歩しました。
新島襄の言葉