4.上田散歩 真田氏ゆかりの地を訪ねて

真田氏ゆかりの地を訪ねて上田を散歩しました。

まず、上田城跡へ
上田城は、真田幸村の名で有名な真田信繁の父昌幸によって築城され、土塁で囲まれた平城です。写真は、本丸跡の入り口に築かれた東虎口櫓門です。
 東虎口櫓門の横にあるのが真田石と呼ばれる大きな石垣の石です。真田昌幸の長男信之が松代藩に移封になった際、運び出そうしたが微動だにしなかったとか・・・。
 本丸跡には真田神社があります。
 真田神社に大きな兜がありました。この兜は、真田赤備え兜であり、大坂夏の陣において武具を赤で統一した「真田赤備え」部隊を率いた幸村がかぶった兜をモデルにしているようです。
 上田城跡から東へ歩くと大手門跡があります。上田城の大手門は、枡形の石垣と堀だけで構成され、城門がない簡素なものであったようです。道路が湾曲している様子が枡形の跡を感じさせますね。また、この付近で関ヶ原に向かう徳川秀忠軍との戦いである第二次上田合戦が行われたようです。
 また、上田城跡の東側には、上田藩主屋敷跡があります。上田藩主屋敷は、歴代の藩主、真田信之以降、仙石氏、松平氏が廃藩になるまで藩主屋敷として使用していたようです。現在は、上田高校となっています。
 上田城跡から真田町の真田氏本城跡へ
真田氏本城は、幸村の祖父、幸隆によって築城されたと伝えられるものです。武田氏によって真田の地を奪われた幸隆は、この城を拠点にして領地の奪取を図り、上田城に移るまで真田氏の本城としていたようです。
 真田氏本城跡から上田方面を望む
 真田氏本城跡の近くには真田氏館跡があります。真田氏館は、上田城を築城するまでの真田氏の居館であり、幸村の祖父真田幸隆、父昌幸が居館としていたようです。
上田城に移り、第一次上田合戦で徳川軍を撃退した真田昌幸は、関ヶ原の合戦前に、昌幸、幸村父子が西軍石田方に、長男信之は東軍徳川方に、父子兄弟が分かれて戦うことを決めました。父昌幸は、名胡桃城(月夜野)を北条氏に奪われたことをきっかけに小田原征伐で北条氏を滅ぼした秀吉の恩に応えるべく石田方に、それに加え幸村は妻が石田方の大谷吉継の娘だったことから石田方につくことを決定し、信之は妻が家康の養女(本多忠勝の娘)だったことから徳川方につくことを決定したようです。通説では、西東軍どちらが勝利しても真田家を守るためと言われていますね。写真は、現在の栃木県佐野市付近で行われたと言われる真田父子の密談の様子を描いた図です。
徳川方が勝利した関ヶ原の戦いの後、父昌幸、幸村は、信之や本多忠勝の懇願により死罪は免れましたが、紀伊九度山に流罪となります。その後、幸村は豊臣家の呼びかけにより大阪冬の陣、夏の陣で徳川と戦い、夏の陣では徳川本陣まで攻め込んだが、兵力で勝る徳川軍に追い詰められ討ち死にしたといわれています。一方、関ヶ原の戦いの後、信之は上田藩主、信濃松代藩主となり、真田家は江戸時代を通じて存続したようです。
幸村の物語は、日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)真田幸村として講談や小説となり現在も語り継がれています。幸村は、大名でもなく戦国時代の一武将でしかありませんが、豊臣家に最後まで忠義を尽くし、勇猛果敢に戦ったためですね。
これで、父子兄弟が敵味方に分かれ戦国の世を生き抜いた真田氏ゆかりの上田の散歩を終わります。

3.秋田・山形散歩 角館~秋田~酒田~鶴岡~羽黒山

今回は、秋田・山形を散歩しました。

まず、みちのくの小京都と呼ばれる角館へ
角館は、出羽久保田藩(秋田藩)の初代藩主佐竹義宣の弟である蘆名(あしな)氏が入部し、蘆名氏によって南北に長い城下町が整備されたようです。写真は、南北に伸びる武家屋敷通りです。
角館から秋田市へ
秋田は、久保田(秋田)藩時代から城下町として、また北部にある土崎港が北前船の寄港地であったため海運などで栄えていたようです。写真は、明治45年に建てられた旧秋田銀行の本店です。
秋田は8月に竿灯まつりが行われることで有名ですね。竿灯まつりは、竿灯全体を稲穂に、提灯を米俵に見立て豊作を祈る祭りのようです。
市内中心部にある千秋公園へ
千秋公園は、久保田城の跡地に整備された公園です。久保田城は、関ヶ原の戦いの後、家康の命により常陸から秋田に移封された佐竹義宣(よしのぶ)により築城されました。この久保田城は、土塁で築かれ、天守もない平山城であり、幕府に恭順の意を表していますね。
現在は、広大な城内に御隅櫓が復元されています。写真は、その御隅櫓であり、展望台からは秋田市内や遠く男鹿半島を望むことができます。
秋田市から酒田市へ
酒田は、江戸時代、出羽国の幕領米を西回り航路で運び出す港町として繁栄し、「西の堺、東の酒田」と言われたようです。その酒田を中心に農地改革による解体まで日本最大の地主と言われたのが酒田本間家だったそうです。写真は、本間家旧本邸です。
最上川の河口に位置する酒田は、山形までの最上川の水運が整備されると、酒田から江戸を結ぶ西回り航路が開通され、重要な経済都市に発展していったようです。写真は、最上川の河口に近い新井田川の中州に、明治26年に建設された米穀倉庫である山居倉庫です。ケヤキは日差しや冬の強い季節風を遮り、そのケヤキにより倉庫内の温度や湿度を保つようにしていたようです。
また、倉庫の屋根は断熱を考慮した二重構造にしています。山居倉庫とケヤキ並木はロケ地として度々使用されているようですね。
酒田市から鶴岡市へ
鶴岡は、江戸時代には庄内藩の城下町(出羽国田川郡庄内)として栄え、庄内米の産地でもありますね。写真は、鶴ヶ岡城があった鶴岡公園の「旧西田川郡役所」の建物です。
庄内藩は、関ヶ原の戦いの後、信濃松代藩から酒井忠勝が入封して初代藩主となりました。酒井忠勝は、鶴ヶ岡城を庄内藩の本城とし、その城郭や城下町を整備したようです。写真は、鶴岡公園の致道博物館にある酒井氏庭園です。
鶴岡から羽黒山出羽三山神社へ
出羽三山神社は、羽黒山山頂に月山神社・出羽神社・湯殿山神社の三神合祭殿(さんじんごうさいでん)がある神社です。写真は、出羽三山の入り口となる鳥居とその奥の随神門です。ここから、杉林の中、約2Kmの石段が続きます。
随神門から少し進むと五重塔があります。この五重塔は、素木造り、杮(こけら)葺きで約600年前に再建されたそうです。長い間、風雨や冬の深い雪に耐えているのですね。
五重塔から登りの石段が、一の坂、二の坂、三の坂と続きます。その二の坂を上ったところに、お茶屋さんがあります。行きは沢山の人で賑わっていたので帰りに名物の力餅を抹茶とともにいただきました。
ここからは庄内平野を望むことができます。
随神門から約1時間、石段を上ると羽黒山山頂に到着します。山頂の三神合祭殿は羽黒修験の根本道場です。
ここ羽黒山には、松尾芭蕉も訪れたようですね。「涼しさやほの三か月の羽黒山」~松尾芭蕉~
羽黒山から笹川流れへ
羽黒山での修験(?)のご利益があり、笹川流れでは日本海に沈む綺麗な夕日を見ることができました。
これで秋田・山形の散歩を終わります。

2.日光山散歩 三代将軍家光と天海大僧正

日光山と言えば、やはり家康公を祀る日光東照宮ですね。今回は、この日光東照宮を大規模改築した家光と、徳川家の信頼を受け江戸時代初期の政策に深く関与した天海をテーマとして日光山輪王寺を散歩しました。
 日光山は、男体山を信仰する山岳信仰の霊場であり、現在の男体山はかつて「ふたらさん」と呼ばれ、「二荒山(ふたらさん)」が音読みされて「日光山」と呼ばれるようになったとする説があるようです。写真は、おなじみの二荒山神社の神橋です。
 神橋の近くには天海大僧正の像があります。天海は、比叡山延暦寺などで天台宗を学んだ後、現在の太田市世良田の長楽寺や川越市の喜多院に移り、家康の信頼を受けるようになったようです。天海は、家康に幕府を江戸の地に置くように助言し、また鬼門封じのため上野に寛永寺を築き、裏鬼門にあたる増上寺を徳川家の菩提寺としました。こうして、天海は江戸の基本を設計していきます。
 家康は、天海、秀忠などに「臨終となったら体を久能山に収め、・・・一周忌も過ぎて以後、日光山に小堂を建て・・・鎮守になろう」の遺言を残しました。二代将軍秀忠や天海は、この遺言を受け日光山に日光東照宮を建てます。
写真は、以前、太田市の世良田を散歩したときに撮影した写真であり、天海により天台宗に改宗された世良田山長楽寺です。
秀忠が建てた日光東照宮は、三代将軍家光により大規模改築が行われ、現在の豪華すぎるほどの社殿などになっていきます。家光は弟の国松との世継ぎ争いがありましたが、太平の世において無駄な争い避けるために、祖父家康により世継ぎは長男の家光に決定されたようです。家光は、家康に対する思いや政策、天海の助言により莫大な費用と人を投入して日光東照宮の大規模改築を行います。
 日光東照宮の大規模改築の際に、秀忠が建てた東照宮は天海の助言により徳川氏とゆかりの深い世良田に移築されました。
写真は、以前世良田を散歩したときに撮影した写真であり、太田市の世良田東照宮です。
 世良田東照宮の拝殿や社殿は、家康の遺言通り「小堂」でした。
鎖国体制などの強権政策を行い太平の世を築いた家光は、江戸城内で死去し、遺言により日光山輪王寺に葬られます。写真は、家光の廟所である輪王寺大猷院(たいゆういん)です。
 家光公の御廟所の入り口である皇嘉(こうか)門、この奥に家光のお墓がありますが非公開でした。
輪王寺大猷院は、寺院では珍しく北向きに建てられているそうです。
輪王寺大猷院の北方には家康公の御廟所があり、家光は死してなお、祖父家康公に仕えていることを表しているのですね。

これで、日光山の散歩を終わります。

1.北九州、下関、福岡散歩

今回は北九州の小倉・門司、下関、福岡を散歩しました。

1日目、まず門司港へ
門司港は、明治22年、国の特別輸出港に指定され、金融機関や商社、海運会社が相次いで進出し、外国航路の拠点および貿易港として発展したようです。
写真は三井物産門司支店の社交クラブとして大正10年に建設された旧門司三井倶楽部です。大正11年にアインシュタイン夫妻が宿泊したようですね。
また、大阪商船の門司支店として大正6年に建設された北九州市旧大阪商船があります。1991年まで使用されたこの建物は、八角形の塔が象徴になっています。
さらに、明治45年に建設された門司税関を復元した北九州市旧門司税関があります。この付近は門司港レトロとして観光地化しています。写真は、赤レンガ造りの北九州市旧門司税関とタワーマンションである門司港レトロハイマートのビルです。
門司港から船に乗って巌流島へ
この巌流島には、1867年に下関に世帯を構えた坂本龍馬が花火を打ち上げに来たようですね。
門司港から小倉城へ
小倉城は、江戸時代前後に毛利勝信によって総石垣造の城郭が築かれ、関ヶ原の戦いの論功行賞で豊前国に入城した細川忠興によって天守などが建てられたようです。
小倉城近くの魚町に「北九州の台所」と呼ばれる旦過(たんが)市場があります。この旦過市場は大正時代に魚の荷揚げ場として成立したようです。
旦過市場の建物は川にせり出して建てられ、昭和の雰囲気を醸し出しています。

2日目、下関へ
下関は、江戸時代、北前船の経由地であったことや山陽道・山陰道の終点であったことから海と陸の交通の要衝でありました。また、現在も国際旅客航路の拠点であるようです。
幅が約700メートルの関門海峡は、潮の干満により1日4回潮の流れが変わるようです。その潮の流れの変化を巧みに利用した源義経が平家を滅亡させたと言われていますね。
また、下関は捕鯨基地でもあり、マルハニチロ(大洋ホエールズの大洋漁業)の創業の地でもあります。写真は関門の台所である唐戸市場です。
唐戸市場の中には、下関名物のフグが置かれています。下関では、フグを「ふく」と言うことが多いようです。諸説あるようですが、「ふぐ」は不遇に繋がり、「ふく」は福に繋がるとか・・・。
また、唐戸には、明治期の建物が残っています。写真は、旧下関英国領事館であり、現存する国内最古の領事館の建物です。
唐戸から赤間神宮へ
赤間神宮は、源平合戦の最後の舞台となった壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇を祀る神社です。この赤間神宮には平家の一門を祀る塚もありました。
赤間神宮から壇ノ浦へ
壇ノ浦には、源義経と平知盛の像があり、また大河ドラマ「義経」に出演した滝沢秀明や小泉孝太郎などの手形があります。
幕末の下関(馬関)戦争で使用された長州藩の長州砲のレプリカが関門海峡に向けて置かれていました。
壇ノ浦から火の山へ
火の山は、明治期には砲台が置かれ、軍事拠点となって一般の人は入山が規制されていたようです。写真は、火の山の山頂から望む関門海峡と関門橋です。
また、壇ノ浦には、下関市と北九州市を結ぶ関門トンネル人道があります。
関門トンネル人道は、幅4メートル、長さ780メートルあり、自転車も通れます。この関門トンネル人道では、本州と九州を移動する目的でなく、ジョギングをしている人もいました。
関門トンネル人道を歩き、本州から九州に到達しました。
関門トンネル人道の北九州側には、和布刈(めかり)神社があります。
この和布刈神社では、壇ノ浦の戦いの前夜に平家一門が酒宴を開いたようです。

3日目
小倉から黒田家ゆかりの地である福岡(博多)へ
まず、福岡藩主黒田家の菩提寺である崇福寺へ
崇福寺には、黒田家の墓所があります。
中央が藩祖黒田官兵衛(如水)の墓石、その奥が初代藩主黒田長政の墓石です。
崇福寺から福岡城跡へ
福岡城は、関ヶ原の戦いの後、筑前52万石を得た官兵衛、長政父子が築城したものであり、当時の城郭は熊本城よりも大きかったようです。築城の際、那珂川の東を黒田家ゆかりの地である備前国(岡山)福岡に因み、この地を福岡と改めたようです。また、那珂川の東側の商人の町を博多としたようですね。
現在、天守台跡は展望台となっています。
天守台から望む福岡市のホークスタウン
福岡城跡の近くの大濠公園へ
現在の大濠公園の大きな池は、福岡城築城の前は博多湾に続く入り江であり、黒田長政により入り江の一部が埋め立てられ、福岡城の外濠とされたようです。
大濠公園から長浜へ、
乱立する元祖(?)長浜ラーメンですが、それぞれの店にそれぞれの味があり、良い競争となっているようです。メニューがラーメンしかないため、お店に入るといきなり麺の硬さを聞かれ、関東人としては戸惑ってしまいます。しかし、ラーメン1杯が450円とは安価ですね。
長浜から天神を経て東長寺へ
東長寺は、弘法大師空海が遣唐使として渡っていた唐から帰国し、博多に滞在した折に建立したといわれています。20年の唐への留学期間を2年で切り上げて帰国した空海は、数年間大宰府に滞在させられたようですね。
空海は、密教を唐長安の青龍寺の恵果から伝授されると、帰国する遣唐使船に便乗して帰国してしまったようです。
長安の青龍寺の恵果は、空海が十分な修行を積んでいることを初対面で見抜き、空海に密教を伝授したそうです。空海は、決して最澄のようなエリートではありませんでしたが、努力が報われ、真言密教を日本にもたらすことができたのですね。
これで、北九州、下関、福岡の散歩を終わります。