5.水戸散歩 徳川斉昭ゆかりの地を訪ねて

今回は徳川斉昭ゆかりの地、水戸を散歩しました。
まず、千波湖へ
千波湖は、かつて水戸城の南側の外堀を形成していた大きな湖だったようですが、昭和になって埋めてられて現在の大きさになったようです。
千波湖の畔に徳川斉昭(烈公)と最後の将軍慶喜の銅像がありました。
千波湖から偕楽園へ
偕楽園は、水戸藩主徳川斉昭によって作られた庭園であり、領民と偕(とも)に楽しむ場にすることを望んで名付けられたようです。
偕楽園から常磐神社へ
常磐神社は、徳川光圀と斉昭を祀る神社であり、その境内には斉昭を助け水戸藩の藩政改革に尽力した藤田東湖を祀る東湖神社があります。
常磐神社から水戸東照宮へ
水戸東照宮は、家康の十一男であり、水戸藩の藩祖である頼房が、父家康を祀るために創建した神社です。
水戸東照宮から旧弘道館へ
弘道館は、江戸時代末期に徳川斉昭によって設立された水戸藩校であり、武道の他にも科学や諸学問の教育、研究の場、また水戸学の舞台となったようです。写真は弘道館の正門です。
弘道館の正庁
正庁の玄関を入ると「尊攘」と書かれた掛け軸があります。安政3年に斉昭の命によって書かれたようです。なお、藤田東湖によって起草された弘道館記には、「尊皇攘夷」の語が用いられているそうです。
旧弘道館から旧水戸彰考館跡へ
水戸彰考館は、江戸時代、2代水戸藩主徳川光圀により、大日本史を編纂するために建てられ、その大日本史は250年の歳月をかけて明治39年に完成しました。彰考とは、「歴史をはっきりさせて、これからの人の歩む道を考える」という意味のようです。
旧水戸彰考館跡から水戸第一高校へ
水戸城の本丸跡に建てられた水戸第一高校の敷地には、薬医門があります。この薬医門は水戸城の唯一現存する建築物です。
水戸第一高校から藤田東湖生誕の地へ
東湖の号は、千波湖を東に望むこの地で生まれたことに因むようです。
水戸藩9代藩主斉昭は、弘道館や偕楽園を開設するとともに藩政改革を行い、黒船が来航すると海防参与として幕府に関わり、攘夷論を主張して開国論の井伊直弼との対立により水戸城に永蟄居となりました。そして、桜田門外の変で井伊直弼が命を落とした5ヶ月後に水戸で急逝しました。
維新の魁となった烈公斉昭は、幕末を荒々しく生き抜く反面、梅を愛した人物だったのですね。
これで徳川斉昭ゆかりの地を訪ねる水戸散歩を終わります。

6.近江散歩(1) 近江八幡、彦根 戦国武将ゆかりの地を訪ねて

今回は、近江八幡、彦根、長浜を散歩しました。

まず、近江八幡へ
近江八幡は、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次が整備した城下町であり、近江商人発祥の地とされています。八幡山城の防御と琵琶湖の水運の要として利用された八幡堀が今も残されています。
「売り手よし、買い手よし、世間よし」の理念をもつ近江商人の流れを汲む企業として高島屋、伊藤忠商事、住友、また創業者が近江八幡出身の西川産業等があるようです。写真は近江商人の信仰を集めた日牟禮(ひむれ)八幡宮
秀次は秀吉からこの地を与えられると八幡山に城を築き、安土城や城下町を移築したようです。写真は八幡山城の虎口跡に建てられた瑞龍寺の山門
1585年に八幡山城を築城した秀次は1595年に高野山で切腹となり、この八幡山城も廃城となりました。秀次の切腹の理由は、謀反の疑い、石田三成の陰謀、秀次の悪行など諸説あるようですが、秀頼が生まれた秀吉に秀次は不要だったのでしょう。写真は八幡山城西の丸跡
近江八幡から車で彦根へ
彦根は古くから交通の要衝であり、その彦根の佐和山城には信長の家臣である丹羽長秀や秀吉の家臣である石田三成などが居城しました。写真は佐和山城への登山道の入り口となっている龍潭寺の山門
関ケ原の戦いで三成が敗れると佐和山城には徳川四天王の一人である高崎藩主井伊直政が佐和山藩(のち彦根藩)初代藩主として入りました。しかし、佐和山の地は三成によって善政が敷かれ、三成への領民の信頼が厚かったため、直政はその威光を払拭すべく彦根城を築城することを計画します。佐和山城は、彦根城に移築された建造物以外は徹底的に城割されましたが、作りは質素であり、財産も殆どなかったようです。
井伊直政は、箕輪城を廃して高崎城を築き、佐和山城を廃して彦根城を築く計画を建て現在の高崎と彦根の基礎を築いたのですね。写真は佐和山城本丸跡から望む彦根城と琵琶湖と彦根の街
佐和山の麓に清凉寺があります。
清凉寺は井伊直政の発願により創建され、井伊家の菩提寺になっています。井伊直弼もこの清凉寺で参禅修行したそうです。写真は清凉寺
清凉寺から彦根城へ
彦根城は、井伊直政の長男直継によって築城されたとされていますが、関ヶ原の戦いで傷を負った直政の死後、家督を継いだ直継は幼少であったため、直政の遺志を継いだ家老や家康によって築城されたようです。その後、直継(直勝)は彦根藩の家臣をまとめることができず安中藩に移封になりました。写真は彦根城の天守
彦根藩は井伊家によって治められ、幕末期に15代藩主井伊直弼がこの彦根で生まれました。写真は直弼が生まれたとされる井伊家下屋敷の楽々園です。
彦根藩井伊氏は一度の転封もなく石高は譜代大名の中でも最高だったようです。写真は井伊家の庭園である玄宮園と彦根城天守
直弼は名門の井伊家に14男として生まれたため、自らを花も咲くことがない埋もれ木に例え、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた邸宅で世捨て人のように17歳から32歳までの15年間を過ごしたそうです。写真は埋木舎
直弼は埋木舎で国学などを学んだそうです。そして、開国派となって開国を断行し、水戸藩浪士により桜田門外で暗殺されてしまったのでしょうか。ここ埋木舎で日本の歴史の大きな転換の礎が築かれたのかもしれませんね。

これで、近江散歩(1)を終わります。

(追)
井伊直政が居城とした高崎箕輪城跡
彦根藩二代藩主井伊直孝ゆかりの世田谷豪徳寺の白猫(招き猫)をモデルにしたひこにゃん

8.川越散歩

江戸時代には川越藩の城下町として栄え、小江戸とも呼ばれる川越を散歩しました。
まず、川越城跡へ
前橋藩と縁のある川越藩の川越城は、江戸時代前半、江戸に近いこともあり老中の居城であったようです。写真は江戸時代末期に建てられ、現存する川越城本丸御殿です。
本丸御殿の様子
本丸御殿の中庭
川越城本丸御殿から喜多院へ
喜多院は、江戸時代に徳川家の保護を受け、川越大火によって伽藍を焼失した際、将軍家光により江戸城紅葉山の御殿の一部が移築されたようです。写真は、上野国世良田の長楽寺から喜多院に移った天海大僧正の像
喜多院の山門
喜多院慈恵堂
江戸城紅葉山から移築された客殿と書院
ここには、三代将軍家光誕生の間や春日局化粧の間などがあります。
慈眼大師天海を祀る喜多院慈眼堂
慈眼堂の裏に天海のお墓があります。
日光、久能山と並ぶ日本三大東照宮の1つである仙波東照宮
家康公の遺骸が久能山から日光に移される途中、ここ仙波東照宮で天海によって法要が行われたようです。
喜多院から川越の総鎮守である川越氷川神社へ
川越氷川神社の大鳥居の額の社号は勝海舟によって書かれたようです。
川越を流れる新河岸川
江戸城の御殿を喜多院に運ぶため、新河岸川の舟運が開かれたようです。
これで川越散歩を終わります。

(追)
小江戸、川越の街並み
明治12年に喜多院から移築された上野寛永寺の根本中堂