10.函館散歩-榎本武揚の足跡を辿って-

異国情緒が残る函館は、港を見下ろす八幡坂や金森赤レンガ倉庫、そしてこの地で命を落とした土方歳三が有名ですね。今回は土方歳三とともに戊辰戦争の最後の戦いである函館戦争を旧幕府軍として戦い、戦後明治新政府の要職を歴任して近代日本の基礎を築いた榎本武揚の足跡を辿って函館を散歩しました。
写真は「行ってみたい坂」として有名な八幡坂です。江戸時代この坂の上に箱館八幡宮が鎮座していたようです。
函館ベイエリアには観光地化された金森赤レンガ倉庫があります。函館は明治後期から昭和にかけて海運業で繁栄していたようです。
人気のある新選組の土方歳三
函館は古くから天然の良港として栄え、江戸時代になるとロシア人の来航を契機に、幕府は北辺警備のため蝦夷奉行、後の箱館奉行を設置します。写真は江戸時代に箱館奉行が置かれた地である元町公園です。箱館(函館)の名は、室町時代に津軽の豪商が、この地(現在の元町公園)に建てた館の形が箱に似ていたことに由来するそうです。
元町公園の下にある基坂
函館は、江戸時代後期、幕府が開港したため外国人が居留するようになりました。外国人は港が望める小高い丘に住み、住宅や教会などを建てたようです。写真は函館ハリストス正教会であり、幕末期にロシア領事館内に建てられた聖堂が後に正教会になったそうです。その後、ニコライにより正教会の拠点が神田に東京復活大聖堂教会(ニコライ堂)として移されたようです。
函館ハリストス正教会と函館港
カレーやロシア料理が美味しい五島軒、初代料理長は函館ハリストス正教会でロシア料理を学んだようです。
幕末期、幕府は、箱館を開港すると防衛上の観点から港に近かった箱館奉行所を内陸へ移転させるため五稜郭を築造しました。しかし、五稜郭は完成からわずか2年で幕府が崩壊したため、新政府により箱館府が設置されました。幕府崩壊後、榎本武揚は土方歳三とともに旧幕府軍として開陽丸で蝦夷地に上陸し、ここ五稜郭を占領します。
榎本武揚は、幕臣として開陽丸の引渡しを兼ねてオランダに留学し、各種技術や国際法を学んで開陽丸に乗って帰国すると、幕府軍の軍艦頭(開陽丸艦長)になります。榎本は、鳥羽伏見の戦いで敗戦し、江戸城が無血開城すると、旧幕臣の生活を考え五稜郭の箱館府を占領していわゆる蝦夷共和国を設立しました。写真は五稜郭近くの梁川公園に設置された榎本武揚像です。
しかし、後に内閣総理大臣となる黒田清隆が率いる新政府軍は、榎本率いる旧幕府軍を攻撃し、函館戦争を戦います。このとき、土方歳三は一本木関門で銃弾に撃たれ命を落としてしまいます。写真は馬に乗った土方歳三のジオラマです。
土方が命を落としたとされる一本木関門
函館戦争を戦う黒田は榎本に降伏を勧告します。しかし、榎本は黒田の降伏勧告を拒否します。このとき、榎本は新政府軍に対する勝算がなかったため、オランダ留学時に持ち帰った「海律全書」(海の国際法と外交)を「今後の日本に必要なもの」として黒田に渡しました。黒田は、その礼に酒と肴を榎本に贈ったそうです。榎本は降伏することを決意し、亀田八幡宮で黒田と会見し、降伏の誓いを交わしたそうです。写真は榎本と黒田が亀田八幡宮で会見している様子を示すジオラマです。
五稜郭の近くにある亀田八幡宮
降伏した榎本は、函館を出発し、東京へ護送され、牢獄に収監されたそうです。一方、新政府の黒田清隆は国際法を詳しく知る榎本武揚の助命を懇願し、やがて榎本は放免となります。そして、旧幕府軍だった榎本は黒田の誘いにより新政府で北海道開拓使、駐露特命全権公使、さらに黒田内閣では逓信大臣等の要職を歴任し、近代日本の礎を築いていきます。
その一方、榎本らは立待岬近くの谷地頭にひっそりとした地に碧血(へきけつ)碑を建立します。
碧血碑は土方歳三など函館戦争における戦死者を慰霊する碑です。碧血碑の説明板には、「函館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地での旧幕府脱走軍戦死者の霊を祀っているのが、この碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8(1875)年、大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は、戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている。碑の台座裏に、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは、旧幕府脱走軍の霊を公然と弔うには支障があったことが推測される。なお、碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」という、中国の故事によるものである。」とありました。
元町から谷地頭に遷座した函館八幡宮
紅葉が鮮やかでした。
函館山へ
榎本武揚と黒田清隆が戦った函館の町
晩年、榎本武揚は、盟友の黒田清隆が死去した際、葬儀委員長を務めたそうです。そして、その8年後に榎本も亡くなりました。
この函館の地で対峙した旧幕府軍の榎本武揚と新政府軍の黒田清隆は近代国家日本を築く想いは通じていたのでしょうね。
榎本武揚の足跡を辿った函館散歩を終わります。
(追)
東京都文京区本駒込の吉祥寺にある榎本武揚の墓
榎本武揚や小栗上野介は、徳川慶喜に新政府軍に対して徹底抗戦することを進言しますが、慶喜はそれを受け入れず恭順の姿勢を貫きました。小栗上野介は、その後現在の高崎市倉渕町権田の東善寺に引き上げましたが、新政府軍により斬首されてしまいました。写真は高崎市の東善寺です。
東善寺にある小栗上野介の墓