京都の日本庭園 #6 -明治期以降の日本庭園-

武家社会が終わり明治期に入ると、京都の寺院は廃仏毀釈により新政府によって敷地が召し上げられ、京都五山の別格である南禅寺も例外ではなく、南禅寺界隈の東山は政財界人の別荘地になっていきました。また、明治期になって人口の減少が著しかった京都の復興を図るため琵琶湖疎水が南禅寺界隈まで引かれました。そして、明治中頃、琵琶湖疎水が完成すると、東山の別荘に琵琶湖疎水の水を引き込んで数々の近代日本庭園が作庭されていきました。
その日本庭園の代表とされるのが明治の元勲山縣有朋が七代目小川治兵衛に作庭させた無鄰菴です。無鄰菴は、南禅寺の西方にあり、東西に伸びる比較的狭い土地に、東山を借景とし、芝生空間に琵琶湖疎水から引いた水を軽快に流して開放的な庭園としています。写真は小川治兵衛が作庭した無鄰菴の庭園です。
無鄰菴の庭園は、上の写真に見るように、左右に背の高いモミや檜、中央には背の低い樹木を配して、木立の中に東山を借景として奥行きを出し、その奥の滝から流れ落ちる琵琶湖疎水の水を芝生の広場を横切るように流して渓流のような雰囲気を醸し出しています。これは、山縣有朋が作庭にあたり、明るい芝生空間を造り、モミや檜など今まで脇役だった木を使用し、琵琶湖疎水の水を引き入れるといった当時の日本庭園では初めての条件を小川治兵衛に課したそうです。

また、その一方で、下の写真に見るように、滝から流れ落ちた水で池泉を造り、また丸石を配した州浜も造り、日本庭園の伝統も守っています。

近代日本庭園の先駆者といわれる小川治兵衛は、日本庭園の伝統を守りつつ、苔よりも芝生を多く用いて庭園を開放的にし、渓流を造ることにより庭園に音を取り入れた新しい庭園を造りました。また、小川治兵衛は、琵琶湖西岸で採石され、チャートで縞模様が特徴の守山石を琵琶湖疎水を利用して舟で運搬し、南禅寺界隈の庭園に庭石として多く使用したそうです。写真は無鄰菴の守山石です。縞模様が斜めになっていますね。
このように、大名庭園や御所庭園とは趣が異なり、芝生など西洋文化を取り入れた開放的な庭園が南禅寺界隈の東山を中心に造られていきました。

昭和になると、作庭家重森三玲(しげもりみれい)により、さらに革新的な日本庭園が造られていきます。重森三玲により作庭された代表的な庭園は、東福寺方丈庭園、光明院、龍吟庵などがあげられます。

まず、東福寺方丈庭園をみていきます。東福寺方丈庭園は、東庭、南庭、西庭、北庭の四つの庭園があり、日本庭園における伝統的な様式(枯山水)、手法(蓬萊神仙思想の表現)、意匠(市松模様)などが用いられていますが、随所に新たな作庭の試みがなされています。
東庭が「北斗七星」、南庭には四つの神仙島・京都五山・八海、西庭は井田を表した大市松模様、北庭が苔と板石による小市松で構成されています。北斗七星、蓬莱、瀛洲(えいしゅう)、壺梁(こうりょう)、方丈、京都五山、八海、市松の八つの意匠を盛り込み、釈迦の出生から入滅までを表しているそうです。

東庭の「北斗七星」は、釈迦の出生を星座で表したものであり、斬新な試みであったようです。上の写真は、東庭の「北斗七星」であり、高さの異なる円柱状の礎石を配置した構成となっています。

南庭の石組みは蓬莱神仙思想を表したものであり、大きな長い石を横に寝かせた構成はとても珍しいものであったようです。

通常、庭石は縦置きにするところ、重森三玲は長い石を横に寝かせ、立石の存在を強調させたのかもしれません。上の写真は立石と横に寝かせた長い石です。

また、南庭の築山(上の写真)は、複数の苔山の大きさや高さを変化させた構成として京都五山を表しているそうです。禅宗庭園では石を配した築山としていましたが、石を配することなく築山を構成していることが三玲の試みのようです。

西庭(上の写真)は、井田の庭と呼ばれ、市松模様がサツキの刈り込みと葛石(かずらいし)で表現されています。葛石とは、社寺の建物の壇の縁などに用いられる長方形(直方体)に加工された石です。三玲は、それまで庭園に用いられることがなかった長方形の葛石を市松模様の直線部に用いるという新たな試みを行ったようです。上の写真を見ると葛石が市松模様から少し飛び出ていますね。

北庭(上の写真)は、西庭の大市松に対して切り石を敷き詰めた小市松になっています。北庭の西庭側は西庭の市松を受け継いでいるために、ほぼ正確な市松で配置されていますが、程なくしてそれが崩れていき、そして最後は一石ずつ配しながら消えていくというボカシの構成として釈迦の入滅を表しているそうです。このように、三玲は絵画で用いられるボカシを庭園に持ち込み、新たな表現としました。

また、東福寺の塔頭である光明院の「波心庭」も三玲の作庭であり、「光明」をテーマとして大海原を表す白砂と光のごとく放射状に林立する沢山の巨石で構成されたモダンな庭園となっています。写真は波心庭です。
上の写真の中央やや右は三尊石、その背後の躑躅とサツキの刈り込みは雲を表しているそうです。
大胆な起伏に苔を配し、三組の三尊石を配しながら大小の石を林立した波心庭も三玲の新たな試みだったのでしょうね。

次に、東福寺の塔頭である龍吟庵の庭園をみてみます。
龍吟庵の庭園は、南庭、西庭、東庭で構成され、三玲によって昭和39年に作庭されたようです。下の写真は、南庭であり、無の庭と呼ばれ、白砂を敷いただけのシンプルな構成となっています。西庭との境の竹垣に施されている稲妻の意匠が現代的ですね。

下の写真は、西庭であり、龍門の庭と呼ばれ、龍が海(白砂)から顔を出して黒雲(黒砂)に乗って昇天する姿を石組みによって表現しているようです。
写真の石組みが龍の頭と角を表しています。
東庭は、不離の庭と呼ばれ、鞍馬の赤石を砕いて敷き詰めていることが特徴です。
このように、明治期以降、伝統的な作庭手法に加え、芝生や刈込み、巨石の配置や絵画の手法(ボカシ)など新たな手法が採用され、近代的な庭園が作庭されてきました。おそらく、室町時代や戦国時代の禅宗庭園も作庭当時は中国文化を取り入れた斬新なものであったことと思います。小川治兵衛や重森三玲などが先駆けとなって作庭した近代庭園もやがて伝統的な庭園となっていくことでしょう。

京都の日本庭園(完)