京都散歩(53) -三千院、宝泉院、寂光院-

三千院は、延暦年間(782‐806)に伝教大師最澄が比叡山内に堂宇を構えたことに始まり、その後、皇子皇族が住持する宮門跡になり、時代の流れの中で、比叡山内から移転を重ね、明治維新後、現在の地大原に移り「三千院」と称されるようになったようです。写真は三千院の参道です。
大原の地は、京都市街の北東であって比叡山の北西に位置し、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地だったようです。壇ノ浦の戦いで生き残った平清盛の娘徳子(建礼門院)が隠棲したことでも有名であり、また都の喧騒から離れた僧や比叡山での天台修行から逃れた僧が集まる「大原別所」となっていたようです。そのような隠棲の地であった大原は現在、参拝客で賑わう誰もが知る観光地となっていますね。写真は「女ひとり」永六輔氏作詞の歌碑です。
平安期、隠棲の地であり天台の別所だった大原に、来迎院、極楽院、勝林院などの寺院がつくられると、大原に住み着いた念仏行者の取り締まりや寺院を管理する梶井門跡(天台座主最雲法親王)の政所が置かれ、その政所が梶井門跡の本坊となり、明治維新後に三千院となったようです。写真は三千院の御殿門です。政所の入り口だった御殿門の脇の石垣は近江坂本の穴太衆(あのうしゅう)によるもののようです。
極楽院は、浄土信仰が盛んだった平安末期に建立されたものであり、明治初期に三千院が洛中から移ってきた際に三千院の境内に取り込まれ、往生極楽院となったようです。往生極楽院には西方浄土から亡者を来迎する阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊が安置され、来迎印を結ぶ阿弥陀如来の両脇の観音菩薩と勢至菩薩が直ぐに浄土に導けるように腰を少し浮かせた大和座りをしていることが特徴のようです。写真は往生極楽院と苔が美しい庭園有清園です。
有清園のわらべ地蔵
三千院から実光院へ
三千院の北にある実光院は、勝林院の子院であり、客殿には声明の資料として石造りの調音器(木琴ならぬ石琴?)がありました。
客殿の南には、律川から引いた水で作る心字池を中心とした池泉鑑賞式庭園の契心園があり、秋海棠が咲いていました。
実光院からさらに北に進み勝林院へ
勝林院は、唐で経典などに独特の旋律を付けて唱える声明を学んだ慈覚大師円仁によって開かれ、古くから天台声明の道場だったようです。この勝林院を本堂とする下院と、三千院の東にある来迎院を本堂とする上院とを以て「魚山大原寺(ぎょざんだいげんじ)」と総称され、現在の「大原」の地名のもととなったようですね。写真は勝林院の本堂です。
勝林院から宝泉院へ
宝泉院も勝林院の子院であり、書院前の庭園に樹齢約700年の五葉松がありました。
書院前の庭園である盤桓園(ばんかんえん)は、「立ち去りがたい」という意味を持ち、書院の柱や鴨居を額に見立てて鑑賞することから、「額縁庭園」ともいわれ、テレビや雑誌などで紹介されていますね。写真は額縁庭園の五葉松です。
初秋の桔梗
宝泉院から寂光院へ
寂光院は、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残った建礼門院徳子が尼となって源平の戦に破れて遠く壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔い、余生を過ごしたようですね。
本堂は、淀殿の命で片桐且元が再興したものでありましたが、2000年に放火により本尊とともに焼失してしまったようです。なお、焼けた本尊は境内の収蔵庫に安置されているそうです。写真は2005年に再建された本堂です。
雨の中の苔が美しい中門
三千院、宝泉院、寂光院の散歩を終わります。