京都散歩(16)-瑞泉寺-

三条大橋の西の木屋町通にある瑞泉寺は、豊臣秀吉の甥・豊臣秀次の一族の菩提を弔うための建立された寺です。写真は瑞泉寺の表門です。
今から約420年前、鴨川の三条河原で悲しい事件が起こりました。1595年8月2日の昼下がり、秀次公の一族の公開処刑が秀吉の命により行われたそうです。写真は鴨川に架かる三条大橋です。
秀次は、秀吉の養子となり関白の位を継いでいましたが、秀吉に秀頼が生まれると次第に疎んじられ1595年7月に高野山で自害させられました。次いで、8月に秀次に幼児や妻妾たち39人が三条大橋の西畔の河原で処刑されたそうです。遺骸はその場に埋葬され、塚が築かれ、石塔が建てられていたが、その後の鴨川の氾濫などで荒廃し、1611年、角倉了以(すみのくらりょうい)が高瀬川の開削中に墓石を発掘し、墓を再建するとともにこの地にお堂を建立したのが瑞泉寺の由緒のようです。写真は秀次公と一族の墓です。
正面に秀次公の墓、その両脇に一族の墓が並んでいました。
秀次公は1595年7月15日 、秀吉公の命により高野山青厳寺において切腹し、御首のみ京の三条河原に移され、その前に秀次公のご一族が引き出されて、次々と処刑されていったそうです。秀次公の御一族である四人の若君と一人の姫君、そして側室として仕えた若く美しい女性たち34人の合計39人は、三条大橋から多くの人が見守る中、一人ずつ処刑されては大きく掘られた穴に投げ込まれたそうです。その後、遺骸が投げ込まれ埋められた穴の跡に大きな塚が築かれ、頂上には秀次公の御首を納めた「石びつ」が据えられ、三条大橋を渡る人々への見せしめとされたそうです。この塚の位置に現在の瑞泉寺の本堂が建てられたそうです。写真は見難いですが三条大橋と瑞泉寺の位置を描いた絵です。
なぜ、秀次一族まで処刑されなければならなかったのか?
秀吉に謹慎を命じられてだけの秀次が勝手に切腹し、秀吉生母(大政所)の菩提寺(青厳寺)を血で汚した事への報復により秀次一族は皆殺しにされたという説があるようです。写真は遺体が投げ込まれた跡に築かれた「殺生塚」を描いた絵です。塚の頂上に秀次の首を納めた石びつが置かれています。
時の権力者は大きな過ちを犯すことがあります。あまりに理不尽で悲しい出来事に合掌せずにはいられませんでした。