京都散歩(47) 等持院 -足利尊氏-

等持院は、足利尊氏が天龍寺の夢窓国師を開山として1341年に創建され、足利将軍家の菩提所になっています。写真は等持院の山門です。
等持院は、開山以来、足利家の菩提寺として発展し、北山に大きな寺域を占めていましたが、室町幕府の衰退とともに荒廃していったようです。写真は等持院の西庭の芙蓉池と中島です。
庭園は衣笠山を借景として造られたようですが、現在は立命館大学の校舎で眺めを遮られてしまったようです。写真は西庭の灯篭です。
西庭と東庭の間に足利尊氏の墓がありました。
足利尊氏は、後醍醐天皇方に与して鎌倉幕府の滅亡に尽力した後、後醍醐天皇が始めた建武の新政に不満を持ち、後醍醐天皇と対立するようになったようです。そして、後醍醐天皇は吉野に逃れ、南朝を樹立することになります。このように後醍醐天皇と対立した尊氏は、皇女和宮を降嫁させた岩倉具視とともに京都の人から嫌われているようですね。写真は足利尊氏の墓です。
足利尊氏の墓より東側に東庭の心字池、西側に西庭の芙蓉池があり、それらの池にはかつて衣笠山から水が引かれていたそうです。写真は東庭の心字池です。
心字池は滑らかな曲線が強調され、池の周囲にはモミジなどが植えられていました。
心字池の中島とモミジ
書院から見た西庭、石橋の先に見える松が素晴らしいですね。
等持院の散歩を終わります。

京都散歩(46) 妙心寺 -大法院、天球院-

大法院は妙心寺の塔頭であり、松代藩主であった真田信之(幸村の兄)の孫娘・長姫が信之の遺命で菩提寺として創建したと伝わっているそうです。その長姫は、上州沼田城主であり信之の長男である信吉の長女だったそうですね。
大法院は、露地庭園が美しいことで知られているようです。露地とは茶室に付随する庭のことです。写真は方丈から待合につながる飛び石と灯篭です。
方丈から見た露地庭園の紅葉
待合と茶室につながる中門
大法院には、住職と親交があった千代の富士のお墓がありました。
真田信之の墓
大法院から天球院へ
天球院は妙心寺の塔頭であり、岡山藩主池田光政が伯母天球院のために建立したそうです。方丈の内部には152面にもおよぶ竹虎図や梅遊禽図などの襖絵と杉戸絵があり、それらは狩野山楽、山雪の筆によるものと伝えられています。
天球院の門
庭園の灯篭
方丈玄関前の庭園
玄関の火打窓と方丈庭園
方丈庭園
方丈西庭
西庭の手水鉢と灯篭
妙心寺 大法院、天球院の散歩を終わります。

京都散歩(45) 曼殊院門跡、圓光寺、詩仙堂、金福寺

曼殊院門跡は、桂離宮を造営したことで知られる八条宮智仁親王の第二皇子である良尚法親王によりこの地に移され、国宝の黄不動画像や曼殊院古今和歌集などの沢山の文化財を所蔵する寺院でした。写真は曼殊院門跡の勅使門です。
勅使門と鮮やかな紅葉
大書院庭園
大書院の杉戸の引手金具は、瓢箪の意匠が施されていました。この瓢箪の意匠は桂離宮と共通しており、そのため曼殊院は「小さな桂離宮」といわれているようです。
小書院庭園の鶴島
曼殊院門跡から赤山禅院へ
赤山禅院は、比叡山延暦寺の塔頭の一つであり、赤山大明神を御所の表鬼門を守護する鎮守として祀っているようです。写真は赤山禅院の山門です。
参道の灯篭
紅葉と拝殿
赤山禅院から圓光寺へ
圓光寺は、徳川家康が足利学校の学頭であった閑室禅師を招き開いた圓光寺学校が前身であり、1667年に現在の一乗谷に移転されたようです。写真は圓光寺の山門です。
講堂前の奔龍庭(ほんりゅうてい)
十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)
水琴窟
十牛之庭の灯篭
圓光寺の座禅堂と講堂
圓光寺から詩仙堂へ
詩仙堂は、江戸時代初期に、徳川家の家臣であった石川丈山が造営、隠棲し、凹凸窠(おうとつか)と呼ばれた山荘が前身のようです。
石川丈山は、大坂の陣の後、59歳で詩仙堂を造営し、90歳で没するまでをここ詩仙堂で詩歌三昧の生活を送ったようです。詩仙堂の名は、中国の詩家36人の肖像を掲げた詩仙の間があることに由来するそうです。写真は詩仙の間から見た丈山作庭の庭園です。
手水鉢と庭園
園水を利用して音響を発し、鹿猪が庭園を荒らすのを防ぎ、また丈山自身も静寂の中にこの音を愛し朗隠の慰めとしたといわれる丈山考案の僧都(そうず)です。一般には鹿おどしといわれていますね。
紅葉と嘯月楼(しょうげつろう)
百花場と呼ばれる庭園の灯篭
庭園に佇む石仏
詩仙堂から金福寺へ
金福寺には、松尾芭蕉が滞在したとされる芭蕉庵があります。写真は金福寺の中門です。
方丈庭園
方丈庭園から芭蕉庵へ
一時荒廃した芭蕉庵を与謝蕪村が再興したそうです。写真は芭蕉庵です。
芭蕉庵の内部は三畳台目の茶室となっています。
与謝蕪村は芭蕉を敬慕していたようですね。
この後、黄昏の東寺へ
東寺のライトアップ



曼殊院門跡、圓光寺、詩仙堂、金福寺の散歩を終わります。