京都散歩(19)-元離宮二条城-

元離宮二条城へ
二条城は、室町時代に足利氏によって造られたものや織田信長や豊臣秀吉によって造られたものなどもあるようですが、現存するのは徳川家康と家光によって築城された平城ですね。また、明治期に離宮となったことから正式名称は「元離宮二条城」というようですね。写真は平成25年に修復が終わった唐門です。
唐門は後水尾天皇の行幸の際に家光によって造られたそうです。唐門にはたくさんの彫刻が施されており、外側の欄間に彫刻された鶴は長寿を表しているようです。
蝶は「長」にかけて末永い繁栄を表しているとの説もあるようです。
唐門内側の亀に乗った黄安(仙人)の彫刻は、修復により鮮やかな色彩が蘇ったようです。
唐門の垂木鼻先金具に付けられた菊紋です。修復のときにこの菊紋の下から徳川の葵紋が発見されたそうです。
唐門の鬼瓦です。鬼瓦に葵紋が削り取られた痕跡がありました。
唐門から二の丸御殿前へ
二の丸御殿は、遠侍および車寄、式台、大広間、黒書院、白書院で構成され、建物が雁行型(階段状)に配置されています。これは建物から二の丸庭園を二面から望めるようにしたためのようです。写真は遠侍および車寄です。
二の丸御殿前から二の丸庭園へ
二の丸庭園は、国の特別名勝に指定された書院造庭園です。書院造庭園とは、書院造の建物の中から見られることを意識して造られた庭園のようです。写真は特別に入場が許可された二の丸庭園から見た大広間の建物です。
二の丸庭園内には、後水尾天皇の行幸の際に将軍家光が建てたとされる行幸御殿の礎石がありました。行幸御殿が建てられるとき、二の丸庭園は小堀遠州により改修されたようです。写真は行幸御殿があった場所から見た二の丸庭園です。池越しに見えるのは大広間の建物です。
二の丸御殿の建物が雁行型に配置されている様子が分かりますね。写真は式台(右)と大広間(左)です。
大広間は、床、違い棚、付け書院等が造られた書院造の対面所であり、付け書院の窓から望む二の丸庭園が最も美しいようです。残念ながら大広間の中から二の丸庭園を見ることはできませんでしたので大広間の近くから二の丸庭園を撮影してみました。
二の丸庭園から本丸へ
二条城の縄張りは東から見て凸型になっており、東部の凸の土台部分が家康が築城した時の縄張りであり、西部の突出部が家光が後水尾天皇行幸の際に本丸として広げた縄張りのようです。写真は本丸御殿です。
本丸には天守台がありました。かつては家光によって建てられた天守があったようですが現在は天守台のみが残っていますね。写真は天守台から見た本丸御殿と比叡山です。
内堀から見た天守台です。
本丸から二の丸御殿内へ
特別に入場と写真撮影が許可された大広間の四の間に入ることができました。写真は狩野探幽による障壁画松鷹図(複製)と透かし彫りの欄間です。
迫力がある松と鷹に圧倒されました。
透かし彫りの欄間には、一方の面に孔雀、その孔雀の反対面に牡丹が彫刻された部分がありました。驚きの技術ですね。
襖の把手の金具です。意匠が美しい。
四の間で写真撮影を終え、二条城の外堀沿いを歩くと西門がありました。最後の将軍慶喜は大政奉還を大広間で発表した後、この西門から出て行ったそうです。写真は西門であり、現在は橋が架けられていません。
通常の見学では入場できない二の丸庭園や大広間の四の間に入場することができ、貴重な体験ができた二条城の散歩を終わります。

京都散歩(18)-堀川通-

本阿弥光悦、長谷川等伯ゆかりの本法寺へ
今回は釈迦の入滅の日に合わせて行われる涅槃会法要で公開される等伯筆の大涅槃図(重文)を鑑賞するために、本法寺を再訪しました。写真は本阿弥光悦筆の本法寺の扁額です。
 通常は大涅槃図の複製が展示されていますが、涅槃会法要では真筆が展示されます。
大涅槃図は息子久蔵が亡くなった6年後の61歳の時に描かれたもので、高さ10m、横6mにも及ぶ大作です。釈迦の入滅に悲しむ人や動物の姿などから等伯の悲しみが伝わってきます。ガイドさんの説明によると、「約400年前に描かれたものでありますが、色彩が鮮やかに残っており、質の高い絵の具が使用されていることから当時の長谷川家は繫栄していたと思われます」とのことでした。
また、本阿弥光悦が作庭した特別名勝庭園の巴の庭には光悦垣があります。鷹峯の光悦寺と同様の光悦垣は曲線が美しいですね。
 写真は、日蓮上人の「蓮」を表す蓮池であり、夏には奇麗な蓮な花が咲くそうです。
本法寺から和菓子屋さんの鶴屋吉信西陣本店へ
鶴屋吉信では抹茶と和菓子をいただきました。
店の横の細い路地が京都らしいですね。
店舗内には鶴が描かれた杉戸絵がありました。
ここ本店でもコレド室町にある日本橋支店と同様にカウンターで職人さんが和菓子を作っている様子を見ることができます。
作りたての季節の和菓子と抹茶を楽しみました。どちらもとてもお美味しい。
鶴屋吉信から少し西に歩くと西陣の碑があります。この付近は西陣と呼ばれるエリアの南東に位置し、路地に入ると機織りのような音が聞こえてきます。
西陣の碑から晴明神社へ
晴明神社は、平安中期の天文学者安倍晴明を祭る神社であり、1007年(寛弘4)一条天皇により晴明屋敷跡に創建されたようです。安倍晴明は当時の天文暦学から独特の‘陰陽道’を確立したそうです。
境内には一条戻り橋の縮小版がありました。戻り橋は死者が蘇るという伝説があるようですね。
また、ここは、千利休の聚楽屋敷があった地であり、利休終焉の地のようです。利休は、晴明神社の井戸の水で茶会を開き秀吉に茶を振る舞い、また最期にここの水で自服したと伝わるようです。
堀川から見る現在の一条戻り橋です。
晴明神社付近は聚楽第の東端にあたるようです。秀吉は、秀次一族を処刑した後、聚楽第を跡形もなく破壊したようですね。
聚楽第址から平安宮内裏綾綺殿跡へ
綾綺殿(りょうきでん)は、内裏十七殿の一つであり、宮中の舞などが行われたそうです。綾綺殿跡には、食用油専門店の山中油店直営の町家カフェがありました。
その綾綺殿跡の近くには、江戸時代後期から営業している老舗の山中油店があります。店の佇まいが歴史を感じますね。
山中油店から堀川へ
二条城の東の堀川には、二条城の築城に伴って築かれた石垣があります。この石垣は紀州浅野家によって築かれたようです。
聚楽第の痕跡に触れることができた堀川通の散歩を終わります。

京都散歩(17)-伊藤若冲の足跡を辿って-

江戸時代の絵師伊藤若冲は、1716年に錦市場の「枡屋」という青物問屋の長男として生まれました。23歳で家督を受け継いだ若冲は商売に熱心でなく、40歳の時に家督を弟に譲り、その後は絵を描くことに熱中したという逸話が残っています。しかし、錦市場の営業権を巡って積極的に調整活動を行っていた記録もあるようです。写真は錦市場の若冲生家跡です。
若冲生家跡の説明板には、「若冲が描く絵画のなかには、蕪、大根、レンコン、茄子、カボチャなどが描かれ、菜蟲譜(さいちゅうふ)という絵巻には野菜だけでなく柘榴、蜜柑、桃といった果物も描かれている。極め付けは、果蔬涅槃(かそねはん)図で、釈迦の入滅を描いた涅槃図になぞらえて、中央に大根が横たわり、その周囲には、大根の死を嘆くさまざまな野菜や果物が描かれている。このようなユニークな作品は、若冲が青物問屋を生家とすることに由来しているといわれている。」とありました。
若冲は、30代後半に相国寺塔頭の住職である大典和尚と出会い、禅に興味を持ち、参禅して「若冲居士」の号を得たそうです。家督を弟に譲った若冲は、動植綵絵や鹿苑(金閣)寺大書院障壁画の制作を始め、1765年に動植綵絵を相国寺に寄進したそうです。
相国寺には、若冲の作品を展示する承天閣美術館があります。承天閣美術館の伊藤若冲展(前期)では、動植綵絵の複製や鹿苑寺大書院障壁画50面(重要文化財)が展示されていました。写真は承天閣美術館です。
また、伊藤若冲展(後期)では、鸚鵡牡丹図などが展示されていました。
相国寺の墓地には、若冲が生前に建てたとされる若冲の墓があります。写真は若冲の墓であり、中央に足利義政、左に藤原定家、そして右に伊藤若冲の墓が並んでいました。
また、京都国立博物館では、「特集陳列 生誕300年 伊藤若冲」が開催され、上述の果蔬涅槃図を鑑賞することができました。「果蔬」とは野菜と果物であり、「涅槃」とは仏教において究極的目標である永遠の平和,最高の喜び,安楽の世界を意味し、とくに釈迦の死を意味するそうです。若冲は伏せた籠の上に横たわる二股の大根を釈迦に見立て8本の沙羅双樹をトウモロコシで表現し、実に66種類の野菜や果物を描いているそうです。
また、若冲が晩年を過ごした石峰寺を描いた「石峰寺図」がありました。
さらに、京都国立博物館の近くの建仁寺の塔頭両足院では「雪梅雄鶏図」を楽しむことができました。写真は両足院です。
1788年、若冲は、天明の大火で家を焼失すると、伏見深草の石峰寺に移り住み、描いた絵を一斗の米と交換して生活していたようです。しかし、この晩年が若冲にとって悲しみに満ちたものかというと、元来無欲な若冲にとって貧困は苦にならず、むしろ悠々自適だったようです。写真は石峰寺の石段です。
石段を上ると総門が見えてきます。
若冲は、石峯寺の本堂背後に釈迦の誕生から涅槃までの一代記を描いた石仏群・五百羅漢像を築く計画を練り、若冲が下絵を描き石工が彫り上げたそうです。その五百羅漢像は住職と妹の協力を得て10年弱で完成し、1800年、84歳で若冲は亡くなったそうです。写真は石峰寺の若冲の墓であり、墓石に「斗米庵若冲居士墓」とありました。
さらに石段を登り境内の門を潜って本堂の裏山へ
裏山には、約530体の石仏で構成された五百羅漢像があります。完成当時は1000体以上あったといわれ、お寺の人の話では山を掘れば石仏が出てくると思われますとのことでした。
裏山の斜面には沢山の石仏が置かれています。
下の写真は賽の河原を表しているそうです。
いずれの石仏も優しい顔をしています。
片膝を立てて沢山の石仏を眺める1体の石仏がありました。この石仏が若冲自身のようです。きっと石仏の若冲は石仏群を見て満足しているのでしょうね。
上掲の果蔬涅槃図は、石峰寺の石仏が完成した後に描かれたもののようです。そのことから若冲はユーモラスに果蔬涅槃図を描いたのではなく、生死を世界を真剣に考え、身近な野菜と果物で生死の世界を表現したともいわれていますね。
(追)
石峰寺の石仏は東京でも見ることができます。椿山荘の庭園にある20体の石仏は石峰寺の石仏が流出したもののようです。写真は椿山荘の石仏です。
石峰寺の人に聞いた話によると、石峰寺がある伏見深草には明治時代に陸軍第16師団があり、陸軍に影響力がある山縣有朋が石峰寺にあった石仏を流出させ、自邸(現在の椿山荘)に置いたのではないかとのことでした。
また、栃木県の佐野市立吉澤美術館には若冲が描いた菜蟲譜があります。菜蟲譜は、11メートルにおよぶ巻物であり、前半には四季の野菜や果物が、後半からは昆虫や爬虫類などの小さないきものたちが描かれています。菜蟲譜には、野菜・果物等約100種、昆虫等約60種が描かれているようです。
写真は前半の野菜や果物であり、シイタケ(?)や柿(?)などが描かれています。左にあるのはヘチマのようです。
写真は後半の昆虫等であり、蝶とユーモラスな蛙が描かれています。
若冲の足跡を辿る散歩を終わります。