京都の日本庭園 #3 -露地庭園、枯山水庭園-

室町時代から戦国時代(安土桃山時代)になると武家社会にも庭園文化が広まっていきました。戦場で戦いの日々を過ごしていた武将達は、禅宗に帰依して禅宗寺院(妙心寺や大徳寺など)に菩提寺となる塔頭を建て庭園を造り、茶人との交流を深め束の間の茶の湯を楽しんだようです。

茶の湯の文化が発達すると露地庭園も発達しました。露地庭園は、草庵風の茶室に付属する茶庭であり、待合から茶室に至るまでにしつらえられた庭です。

建仁寺塔頭正伝永源院の如庵の露地庭園

露地庭園は、飛石、腰掛待合、蹲踞(つくばい)、灯籠などで構成され、「世俗の塵埃を離れ、清浄無垢の境地に至ることを理想とした茶の湯と、その実践の場所である茶室への通路という機能だけに留まらず、精神的に準備をする場所であり、一期一会の主、客の交わりへの導入部」として作られたようです。

圓徳院の露地庭園 

茶室の躙り口まで飛石が配置され、また躙り口までの途中に蹲踞(つくばい)が配置されています。

大徳寺塔頭高桐院の蹲踞

蹲踞は茶室の露地に低く置かれた石製の手水鉢 (ちょうずばち) であり、茶客が入席する前にここで手を清めるとき体を低くしてつくばうのでこの名が生れたそうです。この高桐院の蹲踞は加藤清正が朝鮮から持ち帰り細川忠興に贈られたそうですね。

妙心寺塔頭大法院の露地庭園

方丈から外腰掛待合へ続く飛石、その飛石の脇には照明としての石灯籠が配置されています。露地庭園は、外露地(そとろじ)と茶室側の内露地(うちろじ)からなり、 その間に中潜(なかくぐり)と呼ばれる中門があります。

大法院の外露地の外腰掛待合(右)と中門(左)

外露地には外腰掛待合があり、茶事に招かれた客はこの外腰掛待合で待機するそうです。また、内露地には内腰掛、蹲踞、茶席等が配置されています。このように、露地庭園は、茶室へ続く通路であると同時に、より身近に自然の世界を感じ雑念を払ってもらうため、とても簡素な作りとして「市中の山居」を表し、日本独特の侘び寂びの精神に繋がるようにしています。この「市中の山居」の構成要素として飛石や蹲踞、石灯籠などを配置しているようです。

ここで、石灯籠について触れます。
石灯籠が、庭園と関係を持つようになったのは桃山時代であり、この頃に始まった露地庭園の照明として茶人達が古い灯籠に目をつけ利用したのが初めと考えられ、一説によると千利休が最初だったともいわれているようです。このように、照明の目的で配置された石灯籠ですが、徐々に露地庭園以外の日本庭園にも鑑賞目的として設置されるようになりました。

泉涌寺の御座所庭園の雪見灯籠

灯籠には、春日型、雪見型、岬型、織部型など様々の種類がありますが、笠が大きく、背が低く、水際に設置される雪見灯籠は、木や石、池との相性が良く、庭園を風情あるものにしてくれます。

建仁寺の手水鉢を照らす石灯籠

また、日本庭園の構成要素に植栽があります。

大徳寺塔頭興臨院の北山杉

代表的な植栽としては松やサツキなどが用いられますが、京都の庭園には枝が真直ぐ伸びる北山杉も用いられていますね。この北山杉は横に伸びる枝を丹念に抉り取り、真上に枝を伸ばすそうです。

このように侘び寂びの精神に繋がる露地庭園が発達する一方で戦国武将が自らの権力を誇示するかのように露地庭園や禅宗寺院の枯山水庭園とは趣が異なる庭園も造られるようになっていきます。

圓徳院の北庭

圓徳院の北庭は、秀吉築城の伏見城の庭園を移築したものであり、桃山時代の原型をほぼそのまま留めているそうです。現在は枯山水となっていますが、元々は池泉庭園であり、池泉に架かる橋石に重厚感のある巨石を使用し、その厚さからくる迫力は武将の豪胆さも感じさせます。

高台寺庭園

高台寺庭園の池に架かる回廊には秀吉遺愛の観月台が設けられ、また池の周りには巨石が配置されています。高台寺庭園は、小堀遠州作庭と伝わる庭園であり、池泉や回廊、観月台、巨石を用いた石組みなどは桃山時代の豪華さを表し、禅宗庭園とは趣を異にします。

小堀遠州は、桃山時代から江戸時代前期の武将でありながら、茶道、建築、造園、書画など文化面において多大な功績を残しました。

南禅寺塔頭金地院の方丈庭園(江戸時代初期)

小堀遠州は庭園に直線を導入し、この方丈庭園も直線を強調して近景を大きく感じさせ、奥の築山をより遠く、のびやかな景に見せているようです。また、小堀遠州作庭とされる日本庭園は数多くありますが、遠州が作庭した庭園として確かな資料が残っているのはこの金地院の方丈庭園だけのようです。

小堀遠州ゆかりの御香宮神社の石庭

この石庭も、直線である水平線を基調としており、近景を大きく感じさせ、対岸の景をより遠くのびやかに感じさせているようです。

南禅寺の方丈庭園

南禅寺の方丈庭園は、小堀遠州作と伝えられ、東西に細長い地形に作庭されています。大きな石組を方丈側から見て左奥に配するとともに、巨大な石を横に寝かして配置する手法を採用し、須弥山・蓬莱山などの仏教的世界観などを表現した庭園から脱した構成としています。

また、遠州と同様に武将だった石川丈山も書道・茶道・儒学・庭園設計に精通していたようです。

詩仙堂の庭園(江戸時代初期)

石川丈山は、59歳の時に詩仙堂と庭園を造営し、この地で90歳で没するまで詩歌三昧の生活を送ったようです。詩仙堂の庭園は、刈り込みが特徴でもあり、サツキなどが玉形に剪定されています。この刈り込みという手法は、ベルサイユ宮殿などを参考にして西洋から取り入れられたとする説もあるようです。

東本願寺の渉成園(江戸時代初期)

この渉成園も石川丈山の作庭と推測されています。池泉に回廊が架けられた豪華な庭園となっています。

このように、侘び寂びの世界を表現した露地庭園が造られる一方で、池泉、巨石などを用いて武将の権力を誇示するかのように豪華な庭園や新たな作庭手法を用いた庭園が造られるようになりました。

池泉式庭園へ続く