京都の日本庭園 #2 -書院造庭園、枯山水庭園-

室町時代に入ると禅寺を中心に書院造庭園や枯山水庭園が造られました。

書院造の原型とされる東求堂がある銀閣寺の庭園(書院造庭園、室町時代)

書院造庭園は、武家住宅の書院造に伴う庭園様式であり、書院の着座位置から庭景を鑑賞することを意識し築造され、浄土式庭園に近い様式をとっています。書院造庭園は、室内からの限られた視線の方向と範囲の中に池や中島等を配置して日本の名所などを表したようです。

書院造庭園が武家住宅の庭園として発展していった一方、禅宗寺院などでは枯山水庭園が造られていきました。

大徳寺塔頭大仙院の方丈の北東庭(枯山水庭園、室町時代)

枯山水庭園は、水を用いず、石の組合せや地形の高低などによって山水の趣を表した庭園であり、禅宗寺院を中心に発展してきた庭園です。鎌倉時代から室町時代にかけて、禅僧や公家たちの間で詩会が広まると禅寺の書院が詩会の場となり、書院の周りの狭い空間に自然の山水を凝縮した庭を造ったのが枯山水庭園の始まりのようです。
大仙院の北東庭は、大きな滝石組の前に石橋を架けて大河を表し、また周囲にはツバキやゴヨウマツを植え、深山幽谷の風景を表しています。

大仙院の方丈の南東庭

北東庭の南側の南東庭は廊橋の手前に白砂敷の上に船形石などが据えられ、廊橋で隔てられた北東庭からの川の流れが大海に流れる様子を白砂で表現しています。大仙院の庭は、開祖古岳宗亘(こがくそうこう)による作庭であり、枯山水庭園の原形ともいわれ、古岳和尚作庭の禅の思想をそのままに残しているそうです。

大仙院の庭園のように石(いわ)組みや白砂で山水を表し、禅の思想を表現した枯山水庭園が造られる中で、石組みや白砂で抽象的な禅の思想を表現した枯山水庭園も造られました。

龍安寺の方丈庭園(枯山水庭園、伝室町時代後期)

龍安寺の方丈庭園は、中国の説話に基づいた「虎の子渡しの庭」とも「七五三の庭」ともいわれ、禅僧の修行のための庭として抽象的な禅の思想を表しているようです。七五三石組みは、枯山水庭園には多く用いられ、中国で古来から信じられてきた陽の数、奇数の代表的数字、七・五・三という吉数の石を用いて石組みとするものです。東洋の世界では「15」という数字は「完全」を表す数字であり、龍安寺の方丈庭園はどの角度から眺めても必ず1個の石は隠れて見えないように作られ、「不完全」な庭を表していることは有名ですね。

妙心寺塔頭東海庵の方丈南庭(江戸時代後期)

江戸時代後期の作庭でありますが、東海庵の方丈南庭は「白露地の庭」といわれ、白砂だけで構成された枯山水庭園です。禅僧はこの庭に向かって座禅を組み無の境地に入って行くのでしょうね。

東海庵の書院南庭(江戸時代後期)

書院南庭は、「七坪の庭」と呼ばれ、方丈と書院の間の狭い空間に造られた庭園です。中心の要石より同心円の砂紋(波心)が周囲に拡がり、これらの石と白砂とで小宇宙が表現されているそうです。

次に、石組みや白砂で山水を表し、禅の思想を表現した枯山水庭園を見ていきます。

大徳寺塔頭龍源院の方丈北庭(室町時代)

龍源院の方丈北庭は、龍吟庭(りょうぎんてい)と呼ばれ、中央の石組で須弥山(しゅみせん)を表し、一面の苔で大海を表しています。

龍源院の龍吟庭の石組

須弥山とは、仏教において、世界の中心にあると考えられる想像上の山であり、山頂は神々の世界に達し、周囲は九つ山と八つの海に囲まれている山のようです。また、仏教において、須弥山は人が本来具えている絶対的な人間性であり、誰もうかがい犯すことのできない本来の姿を表しているようです。難しいですね。なお、石組みは中央に背が高い石、その左右に少し低い2つの石を配置し、三角形を形成するようにして美しさを高めているようです。また、上の写真の右手前のように3つの石を不等辺三角形を形成するように配置することで奥行きをもたせているようです。狭い禅寺の庭園の工夫ですね。

龍源院の方丈南庭(室町時代)

龍源院の方丈南庭は、一枝坦(いっしだん)と呼ばれ、奥の大きな石組で蓬莱山、手前左の苔の石組で亀島、右の小さな石組で鶴島、一面の白川砂で大海を表し、神仙思想に説かれる蓬莱山の理想の世界を表現しています。神仙思想とは不老不死を願う思想であり、この思想の中では不老不死の仙人が住む蓬莱山が理想郷として信じられているそうです。

蓬莱山を表す蓬莱石組は、巨石を立て、蓬莱の島が人の近づけない峻厳な絶壁を表現しているそうです。また、写真の左の平石は蓬莱の島に近づこうとする船を表しているようです。しかし、蓬莱山は蜃気楼であり、船は蓬莱の島に到達することはできなかったとする説があるようです。人は不老不死の理想郷を目指しますが、それは叶わないことなのですね。

苔と石組みの亀島
苔で亀の甲羅を表しているのでしょうね。京都は三方が山に囲まれ湧水が豊富なことから湿度が高く、苔が良く育つようです。

鶴石組の鶴島
鶴石組は長い首を表現した鶴首石や、羽を表現した羽石を抽象的に用いて表すものが多く、一見しただけでは鶴と判らないものもあるそうです。左側の石が鶴首石、右側の石が羽石に見えますね。また、神仙の使とされる鶴と亀は長寿の象徴のようです。

建仁寺の潮音庭の三尊石組(平成)

三尊石組は、仏像の三尊仏、例えば釈迦如来と文殊菩薩・普賢菩薩のように、中央に背の高い主石(中尊石)を、左右に主石より低い添石(脇侍石)を配置してます。

大徳寺塔頭瑞峰院の方丈南庭の独座庭(昭和時代、重森美玲作庭)

蓬莱山から延びる半島に押し寄せる荒波を白川砂で表現してます。左の石で船を表し、船が荒波に阻まれて蓬莱の島に近づけない様子を表しているのかもしれませんね。

このように禅宗庭園は、石組みや白砂で言葉では表すことができない悟りの世界を視覚的に表現し、禅の思想を表現しているそうです。

また、禅の思想を表現した枯山水庭園だけでなく、渓谷や川を表現した枯山水庭園もあります。

相国寺裏方丈庭園(江戸時代後期)

水を使わない枯山水風の庭でありながら、渓谷の流れが大きく掘り込まれた珍しい様式の庭園です。

相国寺開山塔庭園(江戸時代後期)

「今出川通」の由来である旧今出川の一部として水路を引き込んだ庭園です。白砂の平庭の左側から奥に向かって、緩やかに蛇行した石積護岸の水路が残っています。 

このように禅寺を中心に書院造庭園や枯山水庭園が造られ、禅の思想が庭園に具現化されました。こうして発展した庭園文化は徐々に武家社会にも広まっていきます。

露地庭園と武家が好んだ枯山水庭園へ続く