京都散歩(30) 加茂社 -上賀茂神社、下鴨神社-

加茂川に沿って半木(なからぎ)の道を上流に向かって歩き、上賀茂神社へ
鴨川が正式名称ですが、下鴨神社近くの高野川との合流点より上流は加茂川(または賀茂川)と呼ばれているようですね。
 加茂川の鷺
上賀茂神社(賀茂別雷神社:かもわけいかづちじんじゃ)は、都が京に遷される以前からこの地に住む賀茂氏の氏神を祀る神社であり、下鴨神社とともに加茂社と呼ばれるようです。写真は上賀茂神社の一の鳥居です。
一の鳥居から二の鳥居に続く参道では、毎年五月五日に葵祭の前儀である賀茂競馬(かもくらべうま)行われます。正岡子規は「くらべ馬おくれし一騎あはれなり」と詠んでいるようですね。
二の鳥居の前には神馬(しんめ)舎がありましたが、休日なので神馬くんもお休みのようです。
参道を進むと二の鳥居があります。二の鳥居は参道に対して直角でなく(一の鳥居と平行でない)、旧京都御所の方向に向けられているようです。珍しいですね。
二の鳥居の奥の細殿(拝殿)の前に立砂があります。この立砂は、上賀茂神社の祭神である賀茂別雷神が降臨したとされる神山(こうやま)を模して造られているそうです。
上賀茂神社の本殿の北にある神山
右側の立砂には二葉の松
左側の立砂には三葉の松
立砂の松葉は、神が降臨する際の目印としているそうです。
雅な境内
境内を流れる明神川の上には橋殿(舞殿)があります。清らかな水の上で舞を奉納するのですね。
明神川から水を引いた渉渓園では、賀茂曲水の宴が行われるようです。この小川の流れは速く、盃が通り過ぎるまでに歌を詠むのは難しいでしょうね。
参拝を終えて神馬舎の前を通ると、神馬くんは休日出勤(?)してました。可愛らしい神馬くんですね。お勤めご苦労様です。
上賀茂神社から社家町へ
社家町は上賀茂神社の神官が住む社家が明神川に沿って並んでいます。各社家は明神川の水を引き入れ、身を清める禊の水、生活用水、庭園の池の水や遣り水などに使っていたようです。写真は社家の街並みと明神川です。
社家町から大田神社へ
大田神社は上賀茂神社の境外摂社であり、大田の沢に野生のカキツバタが群生しています。大田の沢のカキツバタは古歌に詠われていることから平安時代から名勝になっていたようです。尾形光琳の「燕子花図」のモチーフになったともいわれているようですね。
また、この付近は書や陶芸、料理など幅広い分野で業績を残した北大路魯山人が生まれた地でもあるようです。
大田神社から北山の古田織部美術館へ
古田織部美術館では古田織部と本阿弥光悦の茶器などで少し茶の湯の勉強をしました。
北山から下鴨神社へ
下鴨神社(賀茂御祖神社:かもみおやじんじゃ)は、上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母・玉依姫と玉依姫の父を祀っているそうです。写真は境内の糺(ただす)の森です。
糺の森の参道を進むと南口鳥居があります。
鳥居の奥の楼門
また、境内には上賀茂神社と同じように橋殿があります。
境内の奥には井上社(御手洗(みたらし)社)があります。井戸の井筒の上に祀られていることから井上社といわれ、社の井戸から湧き出た水が御手洗池の水源となっています。この御手洗池の底から湧き上がる水泡をかたどったのが「みたらし団子」の発祥と伝わっているようです。写真は井上社と御手洗池です。
下鴨神社の近くに加茂みたらし茶屋のみたらし団子で一服
みたらし団子は、1本の竹串に5個の団子を差してあります。これは後醍醐天皇が行幸の際に下鴨神社の御手洗池で水をすくおうとしたところ、1つ大きな泡が出て、続いて4つの泡が出てきたことによるとする説があるようです。写真は1つ目と2つ目の間隔が広くなっているみたらし団子です。
下鴨神社の摂社に玉依姫命を祀った河合神社があります。
河合神社には「方丈記」を書いた鴨長明の方丈庵があり、鴨長明は下鴨神社の神職の次男として生まれ、神職の道についたようです。晩年は組み立て式の方丈に住み、各地を転々としたらしいですね。写真は長明の方丈庵です。
高野川と加茂川が合流する出町には飛び石があります。
亀の飛び石もありました。
そして、この付近(現在の出町柳商店街)は若狭の小浜とを結ぶ鯖街道の終点だったようです。往時は水揚げされた生サバが小浜で塩でしめられ、この鯖街道を1日かけて陸送され京都に到着する頃にちょうど良い塩加減になったようで、今でも出町柳には鯖寿司の名店が多いようですね。写真は鯖街道口の石碑と出町橋です。
出町柳の「ふたば」は豆大福を求めて長蛇の列ができていました。
加茂社の散歩を終わります。

京都散歩(29) 仁和寺 ー旧御室御所ー

御室(おむろ)仁和寺は、先帝の遺志を継ぎ宇多天皇が完成させた寺院であり、出家後の宇多法皇が住したことから御室御所と呼ばれ、この付近は御室と呼ばれるようになったようです。オムロン(旧立石電機)の創業の地ですね。写真は徒然草を執筆した吉田兼好が庵を結んだ双ヶ岡(ならびがおか)から望む仁和寺の全景です。
仁和寺の伽藍は応仁の乱で全焼し、江戸時代、徳川幕府によって再建され、門跡寺院であることから旧皇居の紫宸殿や清涼殿などが移築されたようです。写真は江戸時代に建立された二王門です。
二王門の力強い金剛力士像(阿形像)
金剛力士像の足の指は大地を掴み、血管が浮き出ています。
二王門から境内に入ると勅使門があります。この勅使門は、明治20年に焼失してしまったため大正期に建てられたものですが、彫刻や欄間の意匠がとても素晴らしいものでした。
勅使門の壁面の透かし彫りはステンドグラスのようですね。
「仁和寺」の軒丸瓦
勅使門の西側の宇多法皇の御所があった場所には現在、御殿があります。写真は御殿の白書院から見た勅使門と南庭です。
白書院の奥には宸殿があります。宸殿は、江戸時代に御所から下賜された常御殿が焼失してしまったため、大正時代に再建されたようです。写真は宸殿の上段の間です。
天井は格式高い折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)
上段の間には宇多天皇の肖像画がありました。
宸殿の前に広がる池泉式の北庭
築山に茶室の飛濤亭、その奥に中門と五重塔を望む北庭は、明治から大正期に整備され、仁和寺の名勝となっていますね。
滝石組みから流れ落ちる水音が心地よい
御殿から参道に戻ると、広い境内の奥に北庭から僅かに見えた中門がありました。
中門を超えると御室桜があります。
遅咲きの御室桜は、江戸時代初期に現在の地に植えられていたようです。
御室桜の向かい側には五重塔があります。
若い僧侶が修行をしてました。
五重塔の奥に仁和寺を守護する九所明神がありました。九所明神には、石清水八幡宮、松尾大社、上加茂・下鴨神社などの合わせて九座の神が祀られているそうです。神仏習合の名残ですね。
参道の正面奥には金堂があります。
金堂は、御所内裏紫宸殿を寛永年間に移築したものであり、現存する最古の紫宸殿のようです。蔀戸(しとみど)などが当時の宮殿建築(宸殿造り)の様式を伝えていますね。
金堂の屋根瓦に亀の上に乗った仙人がいました。この仙人は、黄安仙人という仙人であり、3000年から4000年に一度、水面に顔を出す亀を3~4回見たと伝えられているそうです。仁和寺が永遠に存続することを祈っているのかもしれませんね。
皇室ゆかりの仁和寺の散歩を終わります。

京都散歩(28) 栂尾山高山寺 -鳥獣人物戯画-

栂尾山(とがのおさん)高山寺は、神護寺から徒歩約20分位の山中にあり、2年前に東京国立博物館で公開された国宝「鳥獣人物戯画」を伝える寺院ですね。写真は、高山寺の表参道です。
高山寺は奈良時代に創建され、その後、神護寺の文覚の弟子である明恵上人が鎌倉時代に後鳥羽上皇から寺領を賜り再興したようです。写真は境内の入り口です。
高山寺は、鳥獣人物戯画をはじめとし、多くの絵画や文書、建物が国宝に指定され、貴重な文化財を伝える寺院のようです。写真は明恵上人の住居だったとされる国宝「石水院」の門です。
石水院には、日本最古の漫画といわれる鳥獣人物戯画の複製が展示されていました。鳥獣人物戯画は全4巻からなる絵巻であり、複数の作者により書かれたものらしく、また所々に編集された跡があるようです。ウサギ、カエル、サルなどが擬人化されユーモラスに描かれていますね。
この鳥獣人物戯画など重要な文化財が山中の高山寺にあった理由は不明でありますが、高山寺が修行道場や学問所の役割を果たしていたため文化財が持ち込まれたといわれているようです。写真は明恵上人座像が安置されている開山堂です。
境内の奥にある金堂です。
また、境内には茶園があり、諸説ありますが、ここが日本最古の茶園とされています。鎌倉時代初期、臨済宗の開祖である栄西(後に建仁寺を建立)が南宋から持ち帰った茶種を明恵上人がこの地に植え、栽培したと伝わるようです。当時の茶は嗜好品でなく修行における眠気覚ましの薬として使用されていたようですね。
神護寺と高山寺の間には槙尾山(まきのおさん)西明寺がありました。写真は清滝川に架かる指月橋です。
西明寺は神護寺の別院として創建されたそうです。
清滝川と指月橋ともみじ
高山寺の散歩を終わります。

京都散歩(27) 高雄山神護寺 -空海と最澄-

高雄山神護寺は、平安遷都を桓武天皇に提唱した和気清麻呂が建立した神願寺と高雄山寺が合併した寺院であり、空海と最澄ゆかりの寺院のようです。写真は、清滝川に架かる高雄橋です。高雄(尾)山、槙尾山、栂尾山は、三尾と呼ばれ、紅葉の名所ですね。
高雄橋を渡ると、石段の参道が楼門まで続きます。
石段を上ると楼門が見えてきます。
奈良時代末期から平安時代初期の高級官僚であった和気清麻呂は、宇佐八幡の神意に基づいて神願寺を建立し、その神願寺が和気氏の菩提所でもあり、山岳修行の寺院である高雄山寺と合併し、現在の神護寺になったといわれているようです。写真は神護寺の楼門です。
楼門を抜けると広い境内が広がります。
清麻呂は、平城京を廃して遷都した長岡京で不吉な出来事などが続発したため、当時未開の地であった山城の国に遷都することを奏上し、新都造営の最高責任者となり、平安京の礎を築いたようです。写真は、和気公霊廟です。
清麻呂没後、清麻呂の子息が法要の講演に、当時比叡山で修行していた最澄を招いたそうです。最澄の天台講義はとても素晴らしいものであったらしく、桓武天皇が知ることとなり、最澄は短期留学生(遣唐使)として唐にわたることになったそうです。唐から帰った最澄は、同じ遣唐使として唐から密教の教えを持ち帰った空海とここ神護寺(当時は高雄山寺)で密教の教えを得るため親交を深めていくことになったようです。写真は、空海が暮らしていたといわれる大師堂です。
空海は、唐の青龍寺の恵果から密教を伝授され、経典、曼荼羅、法具などを唐から持ち帰りました。その空海は、最澄に密教の教えを授け、密教の継承者となるための重要な儀式である灌頂を最澄に授けたようです。しかし、その後次第に、最澄が空海の下に赴く機会が少なくなり、密教は体で会得すべきものと考える空海と密教を経典等で会得しようとする最澄は、袂を分かち、それぞれの道を歩むようになったようです。写真は石段と金堂です。
その後、空海は、高雄山寺を神護寺として整え、さらにその後、嵯峨天皇から賜った東寺、高野山を真言密教の道場として整備していったようです。写真は、石段から見た五大堂、もみじが少し色付き始めていますね。
一方、神護寺は平安末期に衰退しましたが、後白河法皇や源頼朝の援助を受け、文覚や弟子の上覚により復興され、江戸時代は京都所司代板倉勝重が奉行となり再興されたようです。ここ神護寺には、有名な伝源頼朝像(国宝)が所蔵されています。
このように、高雄山神護寺は、仏の教えを後世に伝えようとした空海と最澄が親交を深め、またその方向性の違いから袂を分けた場所だったなのですね。

(追)
清滝川の谷、錦雲渓に向かって素焼きの盃を投げる「かわらけ投げ」で無病息災を願いました。かわらけ投げは、神護寺が発祥のようですね。

高雄山神護寺の散歩を終わります。