京都散歩(11)-金戒光明寺-

金戒光明寺は、法然上人を開基とする浄土宗の寺院であり、幕末期に会津藩主松平容保(かたもり)が就任した京都守護職の本陣が置かれ、また新選組発祥の地とされています。写真は山門であり、応仁の乱で焼失しましたが、京都守護職の本陣が置かれる2年前の1860年に再建されたようです。
松平容保は、18歳で会津藩第9代の藩主となり、幕府からの要請により28歳で京都守護職に就任したようです。このとき、容保は京都守護職への就任を固辞しましたが、会津藩祖であり、将軍家への忠誠心が厚い保科正之(3代将軍家光の異母弟)が残した家訓(かきん)を持ち出され奉命を決心したようです。そして、容保は1862年金戒光明寺に入りました。写真は金戒光明寺の城門のように建てられた高麗門であり、左の柱に「会津藩松平肥後守様 京都守護職本陣」と書かれた板が掛けられていました。
容保は金戒光明寺に藩兵1000人を常駐させましたが、攘夷討幕の過激派志士により治安が悪化した京都の街を鎮静させることができなかったようです。この様な状況下、将軍警護のため江戸小石川伝通院を出立してきた浪士組の近藤勇や芹澤鴨が光明寺で容保に拝謁し、その浪士組は新選組となりました。
金戒光明寺は、江戸時代初期徳川家により城構えに改められていたこと、御所に近いことなどの理由により、京都守護職が置かれたようです。写真は広大な境内に建つ御影堂です。
大方丈には会津藩士の鎧兜や松平容保ゆかりの品が展示されていました。写真は大方丈の前庭です。
大方丈庭園はきれいな枯山水庭園でした。
境内の西奥に会津藩殉難者墓地がありました。ここ会津藩殉難者墓地には禁門の変や鳥羽伏見の戦いで亡くなられた会津藩の人達の霊が祀られていました。
また、境内の奥の高台に三重塔が建てられています。この三重塔は2代将軍秀忠の菩提を弔うために建立されたようです。
三重塔が建つ場所からは京都市内を一望できます。金戒光明寺は、京都御所を一望できる高台にあったことから徳川家が朝廷を監視するために城郭構造に改められていたようですね。写真は三重塔から見た山門と京都市内です。
金戒光明寺の塔頭である西翁院からは西からやって来る敵を天王山、淀川あたりまで見渡せたようです。写真は西翁院です。
(追)
松平容保は、八月十八日の政変で長州藩士を京都から追放し、孝明天皇から絶大な信頼を得ました。しかし、薩長同盟が成立し、また孝明天皇が亡くなると、倒幕の流れが強くなり、次第に幕府の勢力が弱まっていきます。容保は、朝敵となり鳥羽伏見の戦いに敗れると、徳川慶喜とともに開陽丸に乗って大阪から江戸に逃げ帰り、その後会津に入ります。写真は容保と慶喜が上陸した浜離宮庭園の将軍お上りの場です。
江戸無血開城がされると、新政府軍は会津藩を攻撃し、容保は降伏します。会津戦争に敗れた容保は、助命されましたが謹慎となり、その後、日光東照宮や上野東照宮の宮司を務め、明治26年に小石川で亡くなりました。写真は会津若松の松平家の廟所にひっそりと佇む松平容保の墓です。
松平容保は、徳川家への忠誠を最後まで失うことなく、激動の時代を生き抜いた人だったのですね。