京都散歩(12)-知恩院-

知恩院は、金戒光明寺と同様に、法然上人を開基として建立され、浄土宗徒であった徳川家康によって大きな伽藍が建設されたようです。写真は秀忠によって寄進された三門であり、その大きさに圧倒されます。
知恩院も京都における徳川家の拠点とすることや徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制するために大きな伽藍が建設されたようです。写真は黒門です。
知恩院では、二条城二の丸御殿とおなじく狩野派による金碧障壁画が飾られた大方丈と水墨画が飾られた小方丈があり、公開されていました。
写真は三門下の葵の御紋と男坂です。
三門を過ぎると男坂があります。男坂は段差が大きく、知恩院の威厳を感じる石段でした。
境内には、狩野派による金碧障壁画や襖絵がある大方丈があり、その大方丈の上段の間は江戸時代に将軍が大名と謁見するときに使用されたそうです。知恩院は城のように使われていたようですね。写真は方丈庭園です。
方丈庭園には家光御手植えの松がありました。
(追)
金戒光明寺から知恩院へ行く途中に琵琶湖疎水から流れる白川がありました。写真は三条通白川橋です。「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と書かれていました。
白川の近くに光秀の首塚がありました。諸説あるようですが、「天正10年(1582)、本能寺にいた主君織田信長を急襲した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹薮で農民に襲われて自刃、最後を遂げたと言われる。 家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている。」とありました。
光秀の首塚を守っているのが和菓子の餅寅さんです。餅寅さんは光秀の子孫からの依頼により代々光秀の首塚を守っているそうです。
知恩院の散歩を終わります。