京都の日本庭園 #1 -寝殿造り庭園、浄土式庭園-

京都の日本庭園が美しいのはなぜか。
京都は、三方が緩やかな起伏の山で囲まれているため、豊富な湧水に恵まれていること、樹木や石、砂などの作庭材料が豊富なこと、寒暖差が大きいこと、政治(権力?)的、宗教的、文化的な面で中心であったこと等が要因として挙げられます。また、戦国時代の大名たちが戦いの合間の一時の癒しを庭園や茶の湯に求めていたからかもしれませんね。

現在、最も気に入っている南禅寺塔頭金地院の庭園、戦国武将小堀遠州が作庭した鶴亀の庭

日本庭園の様式は、時代の流れとともに変遷しており、概ね寝殿造り庭園、浄土式庭園、書院造庭園、枯山水庭園、池泉式庭園と変化しているようです。
その日本庭園を今までの京都散歩の中で実際に歩いた庭園をもとに振り返ってみます。

寝殿造り庭園(平安時代初期)の名残をとどめる神泉苑の庭園

寝殿造り庭園は、寝殿造と称される貴族の住宅に、寝殿の正面(南側)に遣水(やりみず)から中島のある池に水を流し込むように造られた庭園です。

神泉苑の中島

寝殿造り庭園では、池に浮かべた船から観月が行われていたようです。この頃の庭園は宗教(仏教)の影響をあまり受けることなく、専ら貴族のための遊行の場だったようですね。

大覚寺大沢池(寝殿造り庭園)

大沢池は、月の名所であり、貴族の別荘地である嵯峨野に 造られた日本最古の人工の庭池のようです。この頃の大沢池は、嵯峨天皇の離宮である嵯峨院の庭園であり、貴族たちは観月を楽しんでいたのでしょうね。

大覚寺大沢池(寝殿造り庭園)の中島

寝殿造り庭園では、大きな池に中島を浮かべ大海に見立てていたようです。「見立て」とは自然風景などを再現した演出であり、日本庭園を構成するための大切な一つの要素となっています。池や中島で大海を表し、また石組みや築山で仏教思想を表したりしています。海を見る機会が少なかった貴族は池や中島を見て大海を思い浮かべていたのでしょうか。

大沢池の名古曽の滝(遣水)の跡

この滝から流れ出る水が大沢池に流れ込んでいたようです。遣水(やりみず)とは、水を導き入れて池に流れるようにしたものです。 流水の曲折にさまざまな工夫が凝らされ、石などの配置にも独特の苦心が払われたようです。また、遣水では曲水の宴が行われたようですね。

昭和期に再現されたものでありますが、曲水の宴が行われる上賀茂神社の渉渓園

平安時代後期になると、釈迦の入滅から二千年が経過し、救いがない末法となることから自らが極楽浄土へ往生することを願う浄土信仰が広まり、浄土式庭園が造られるようになりました。

浄土式庭園(平安時代)の平等院庭園

浄土式庭園は、仏教の浄土思想の影響を大きく受けたものであり、極楽浄土の世界を再現しようとしたため阿弥陀如来を安置する金堂や仏堂の前に園池が広がる形をとっています。西方浄土を背にした阿弥陀堂(鳳凰堂)の東前方に広がる池は大海を表し、中島などに州浜が造られていることが特徴となっています。州浜(すはま)は、土砂が堆積して水面に出たところであり、池や流れの岸にゆるい傾斜で玉石を敷き並べて護岸を形成しています。

平等院庭園(浄土式庭園)の州浜と小橋

平安時代の貴族社会は、阿弥陀如来を中心とした極楽浄土を究極の理想郷とする浄土思想が盛んになったため、数多くの浄土式庭園を造ったそうです。

鎌倉時代から室町時代にかけて大陸から禅宗、水墨画や山水画などが伝来すると日本庭園の様式も少しずつ変化したようです。

天龍寺の曹源池庭園(南北朝時代から室町時代初期)

天龍寺の開山である夢窓疎石は、庭園を遊行の場ではなく、悟りを深める修禅の場として庭園を造ったようです。曹源池庭園は、方丈手前に緩やかに湾曲する州浜と大きな池を残しつつ、対岸には大きな石組で中国大陸の荒磯が表されています。さらに、後方の嵐山や亀山(小倉山)を庭園の一部に取り込む借景により、山水が表されています。

曹源池庭園の龍門瀑

龍門瀑は、黄河中流の龍門の滝を乗り越えた鯉だけが龍になるという「登龍門」の故事に倣ったものです。大きな石組で滝を表し、滝から流れる水が石橋の下を流れる様子を表しています。天龍寺の禅僧は毎朝この曹源池庭園に向かって座禅を行い修行しているそうです。

仁和寺北庭

現在の仁和寺北庭は江戸時代に作庭されたものですが、茶室の後ろに五重塔と中門を借景としてます。建物を借景とするのは珍しく仁和寺庭園の特徴となっているようです。

等持院庭園

心字池に架かる石橋とその背後の松が美しい等持院の庭園も夢窓疎石が作庭したと伝えられています。

このように、日本庭園は、貴族だけが楽しむものでなく、様式を変えながら徐々に禅寺等に広まったようです。

書院造庭園、枯山水庭園へ続く